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2011年7月12日火曜日

事実は小説より奇

僕は小説は読まない。
正確にいうと、いつの間にか読まなくなった。

あれは小学校時代だと思うが、読書家の父の勧めで故井上ひさし氏の小説を何冊か読んだ(『吉里吉里人』とか『ドン松五郎の生活』とかそのへん)覚えがあり、そののちいつだったか自分で井上氏の小説を買ってみたのであるが、正直なところ以前読んだときの感動に似た感じがなくて、ただ漠然と字面を追っているだけになっていることに気づいてしまったのである。


以来、小説は読んでいない。


大学に入って一人の時間が沢山でき、その合間を縫って読書を始めたが、読むのはもっぱら新書の類で不自然なぐらい(それこそゼロ)小説を読まない。多感で社会に目を向けだした時期だったので、『事実』が書いてあることが絶対条件だったのだ。
同じ時間を割いて読書をするのであれば、やはりその後直接的に役に立つ方の情報を入れておきたいという変な焦りもあった。


ただ、今になって思う。
『同じ時間を割いて読書』という書き方には、どうしても『やりたくはないが必要にかられて』というニュアンスが僕には感じられて、それがゆえに作者の世界には引きずり込まれないどうしてもちょっと冷めた視点で字と事実を追ってるだけなんじゃなかろうかと。だから著者について、異常に不明なのだ。


特に年配の方と話すと、あの小説読んだことあるかとかあの著者はどうだとかそんなことも知らんのかと、いわば一般常識のようになっている本も沢山あって、教えてくださいとか今度貸してくださいとかいう話になるのだが、僕が小説を好んで読む日はまだ遠そうだ。

2011年7月10日日曜日

捨てられない

『文化財復元無用論』 山岸常人氏

復元するということは当初の形態のみに価値を認め、その後建物が経てきたさまざまな歴史には評価を与えず、消し去ってしまう行為であるところに問題がある、ということが1つ。

もう1つは遺跡の復元などに典型的に見られる現象だが、上物を復元する際復元根拠が曖昧というか怪しげな部分が多い。想像に頼らざるを得ない場合が必ず出てくる。そういったことが学術的に許されるのか。

復元は歴史資料の消去につながり、ひどい場合は捏造につながる場合もある。




先日長野県を中心に震度5以上の大きな地震があり、松本上の外壁にひびが入ったことが大きく報道された。
他の歴史的文化財同様、保護してしかるべきだと思ってたけどこういう考え方もあるのか。

保存技術のすごさには目を見張るばかりで、ボロボロになってた化石だろうが土器だろうが、ほぼ『完璧に』修復してしまう。復元した対象のニュアンスをつかむ分にはいいのだろうが、それ以外に不必要と思われるものには使わない。そういう姿勢が必要なのかもしれない。

特に、だいぶ古いものに関しては。


国の文化予算は驚くほど少ない。
由緒正しい神社なんかの大工事があろうもんなら、他に回るお金がほとんどなくなってしまう。不必要な修復を避けて、崩れていく遺産の惜しむべきを惜しみ、新しい才能に投資するやりかたこそ、何百年後かの世代のためになるのではなかろうかね。

博物館に行って、展示されてるのが携帯電話とパソコンだけじゃちょっと切なかろう。