I’M HERE

自分の写真
トータルライフコンサルタント 相続診断士

2008年12月29日月曜日

タキオンの時代

今年の競馬の集大成である有馬記念が昨日行われました。

去年の覇者で中山競馬場巧者のマツリダゴッホがなんとケツから3番目に沈み、3連単は98万円となかなか荒れたレースでしたが、勝ったのは1番人気、ダイワスカーレットでした。


先月の天皇賞で僕はスカーレットを「牡馬相手にG1を取ってない点でウオッカに劣る」と申し上げましたが、これで名実ともに最強を名乗ってもよくなったと思っております。

期待していたウオッカ、菊花賞馬オウケンブルースリ、NHKマイル、ダービー馬ディープスカイ、宝塚記念のエイシンデュピティなどを欠く、「空き巣」だった感は否めませんが…


僕はどうもスカーレットが好きになれず、というかウオッカが好き過ぎるためスカーレットの粗さがしばかりしてしまいますが、それもやっぱり彼女の完璧さによるものでしょう。逃げて12戦8勝、負けた4回はすべて2着。この成績は異常です。逆にウオッカのムラっけには人間的なものを感じて応援してしまいます。


ちなみにこのレースをもってメイショウサムソンは引退を表明しており、種牡馬としての生活をスタートさせるそうです。どんなに凄い馬でも、G1で惨敗を繰り返すことは種馬としての評価という点ではマイナスにしかなりません。しかしサムソンは(陣営がどう思ってたかは別として)全盛期を過ぎた状態で凱旋門に挑み、その反動で天皇賞を回避してジャパンカップで惨敗し、このレースで引退と言っていたにもかかわらず有馬記念にも出走。結果は8着。


去年凱旋門に行けていたら、こんな晩年にはならなかったでしょう。ひょっとしてもう引退していたかもしれません。けど馬インフルエンザの流行の影響で渡欧を断念し、結果として力の落ちた今年挑戦せざるを得ず、種牡馬としての価値を落とすことにもなりました。

けどこの挑戦し続ける姿勢は本当にかっこいいものがありますし有馬記念にしてもファン投票で選ばれたらそら出なあかんやろっていう気概とか、やっぱりアイドルでしたね。

引退レースとなった今回、武騎手の騎乗にも粋なところがありました。
だいたい出負けして好位置につけて競馬のできないサムソンですが、今回は前目3番手につけ一時は先頭に並びかけるという見せ場を演出してました。

1月4日に京都競馬場で引退式があります。たぶん行けないですが、お疲れ様と言ってあげたいです。


ついでにもう引退していいんじゃないかっていう馬

アサクサキングス
マツリダゴッホ
カワカミプリンセス
アドマイヤモナーク
コスモバルク

お疲れ様でした。

2008年12月27日土曜日

クリスマスの盲点

Merry Christmas☆











皆様今年のクリスマスはいかがお過ごしでしたか。


僕は日ごろの疲れを癒すべく、家にこもろうと心に決めておりました。




しかしながら年末のテレビ番組というのはどうも好きになれないものが多く、夕方から最近新しくできた「西宮ガーデンズ」に冷やかしに行きました。




「西宮ガーデンズ」は阪神甲子園球場の跡地にできた大型商業施設で、主に若者向けのファッション店舗が入ってます。


阪急西宮北口駅から、徒歩5分です。



僕は甲子園に行ったことがなかったんですが、意外に近くてびっくりしました。



行った時間が時間やったからかもしれませんが、人もそんなにいなくていい感じでした。
4階屋上のガーデンスペースでは、半日ぐらいは噴水を眺めて過ごせることでしょう。





バーゲンやなんやでだだ混みになる前に、いっとくことをお勧めします…

2008年12月23日火曜日

やっちまったわ!

大学時代の友人が結婚し、その披露宴?(大学の友人限定)に招待され、行ってきました。

18,9のときに故郷石川を出てきた彼女は当時日本語が理解できず、僕らの話を電子辞書片手に聞いていたものですが(日本人です)、そんな彼女のひたむきさを買ってくれる男性が現れたことに心から「助かったな~」と言ってあげたいです。


大学時代、完全にグループごと浮いた存在であった僕を含む何名かの人間は、行ったとたんなぜここに来たのかわからない境地に陥り、寒い中テラスでビール片手に仕事についてくっちゃべってました。


だいたいああいうおめでたい席では女性のお友達はカメラ片手に自分の将来に思いを馳せ、男は男で迫り来る責任感にげんなりしたり身が引き締まったりするものです。僕は前者です!



で、せめて写真ぐらいは撮ろうと思ってカメラ持って行ってたんですが…

メモリーカード持って行くのを忘れまして…

ほんま何しに行ったのかわからないですね。


もし、結婚式ネタに自分の将来を重ねる方がいれば、自由に想像して幸せな気分になってください。

とにかく今回は本当に、おめでとうございました。

2008年12月19日金曜日

私物を小出しにする試み

ブログのようなものを使って人に何かを伝える場合、(興味を持ってもらおうと思えば)見せ方というのが大事になります。

たとえば、写真をアップしたり、文字に工夫を凝らしてみたり、独特の表現を用いてみたり、ほかにも色々あるでしょう。





昔からこのブログを読んでくださっている方はおわかりかと思いますが、2つ前の投稿あたりからちょっと趣向を変えてみました。





大体は



「文字に変化をつける」



というのでごまかしています。



僕は絵文字やら顔文字を駆使して見た目を華やかにする、という作業がとても苦手(現にどういう感情を表すのかわからない顔文字が多々存在する…)なので、誰かに何かを「面白く」伝えようとすると、どうしても話す内容でこねくりまわすことになります。





何かにつけて、「色使いの難しさ」を痛感します。

それでも、携帯で送るメール同様、相手に与える影響が計り知れないものがあります。





次の例を考えてみます。



1・今日、大学に行った。

2・今日、大学に行った。

3・今日、大学に行った。



こう見ると、本当に違いますよねー。



他人の書いてるのを見ると、実感はできるんやけどなー…





自分の思っている以上に自分の書いていることが面白いものではない以上、嫌らしくない見せ方というのをちょっとずつ勉強していきたいと思います。なんかいいアイディアがあったら、ください。





全然違う話なんですが、年が代わるにあたり香水を新調しようかと思います。
渋さの中にさわやかさの宿る匂いがあれば、大募集!!

2008年12月18日木曜日

「泣ける話」も、その成功のために失敗する

よく掲示板なんかで「泣ける話」として取り上げられている話がありますよね。

たとえばこんなやつです。



親父の記憶は全く無いし、顔も名前すら知らない。母子家庭なのだが、母も仕事で忙しく俺は小さい頃から祖母に育ててもらった。いつもばあちゃんは、「ひもじいか?」と言い、卵と醤油だけの炒飯を作ってくれた。それが絶妙な味で、俺も一端の料理人なのだが、何度挑戦してもあの味は出せないでいる。毎日一緒にいたばあちゃんも、小4の頃に糖尿病で他界した。人前で泣くのがかなり恥ずかしい年頃なのに、葬儀中に大声で泣いた。高校の時に、母とばあちゃんの思い出話になった。「ばあちゃんね、料理なんか全然しなかったんだよ」「でもね、お前にご飯食べさせる為に」「不器用だからたったひとつしかレパートリーなかったけど、ご飯作ってくれたんだよ」たしかに今思えば、ばあちゃんの作る炒飯は美味いとは言い切れない。だが俺の思い出の中では、未だに追いつけない味なんだよな。まさに、料理は愛情ってヤツだ。ばあちゃんに、俺の炒飯食べさせてやりたかった。
http://www.melma.com/backnumber_167436_4281670/より転載)




「泣けるか?泣けないか?」って話になり、「泣けるけどすぐ忘れる」という意見と、「泣けない」という意見に分かれました。

僕は泣けません…


自分の肉親に同じことが起きれば、泣けると思います。
そして、この話の当事者は、この話が真実であれば泣けるんだということも容易に想像できます。


では、なぜ泣けないのか?


想像力が足らん!!  という意見は、却下しました。上記の通り、想像はできます。

人間味がないのか?  それも上記の通りNOです。




いろいろ考えた結果、以下の仮説を導きました。

20と何年も生きてると、もちろん身近な人の不幸や、身近な人の身近な人の不幸に出会うこともあります。僕も例に漏れません。

「誰かの死」は、かなりの確率で誰かが泣く話になり、逆に泣ける話というのはそのほとんどが誰かの死の上に成り立っています。(サイト参照)


しかし僕は自分の身近な人の死について、「誰かに話したい」という願望がほとんどありません。それは結構賛同していただけるんじゃないかと思いますが、むしろ上のように公にすることについて、かなり違和感があります。



自分がなぜ公にしたがらないか?

理由は思いつく限り、以下のようなことです。


  1. そもそも自分の負っている悲しみを、人が自分が負っている以上の悲しみとして理解するわけがない。つまり、人に話すと自分の大事な人の死が、自分が思っているほど崇高なものではなくなる恐れがある。本当に悲しいなら、自分の内に秘めて消化するほうが危なげない。
  2. 人にこの手の話を聞いたとき、普通はちょっと困る。その理由として、何を求めているかが明確でないのと、「死者」という人種の圧倒的な存在感がある。自分が逆に話す立場になったとき、同じ心境に陥らせるのではないか?という恐れがある。また、1の理由によりあまり安っぽい意見も聞きたくはない。

このようなことを理由として考えたとき、逆に公にしようという立場の人の心境を想像するに、次のようなことが考えられる。

  1. 正直悲しみはそこまでのものではない。
  2. 広く人に聞いてもらうことによって、少しでも自分と同じ心境に達してもらい、それを実感することで自分の悲しみを和らげようという意図がある。(気分転換を含む)

しかしこういってしまうと、ものすごい悪意があるように聞こえてしまうので、自分のことを考えたとき、もうひとつの疑問に出会いました。

「もうそろそろ話してもいいかな」と思うのはいつか?

自分の場合、悲しみが薄れたときです。

話したとしても、もう悲しまない。そしてその姿を見て、聞いてくれた人も悲しまない。そう判断していいタイミングだと思います。

おそらく「悲しい話」はこれにあたると思います。

つまり、「聞いても誰も悲しまないタイミング」で話している。悲しまないというと語弊があるかもしれませんが、「悲しむことを楽しめる程度」ということでしょうか、一種の「エンターテイメント」です。

ここにものすごい違和感を感じるんです。「泣かせよう、おそらく泣くだろう」と思って書いている本人は悲しみの時期をとうに越えて、エンターテイメントとして話を提供する。そしてその提供された話は、ほとんどの場合が自分の身近な人の死を題材にしている。その温度差に妙に冷めてしまって泣けない。

これやったんですね…

「泣く」という行為には、感情移入が必要です。

相手に同情するとか、自分に置き換えてみるとか、何かしらやってると思います。だからこそ、泣ける話であればあるほど、話してはいけない。人を(エンターテイメントとして)泣かせようと思うなら、公にすべきでない。ということになるのかもしれません。

まあ、僕のような人間を泣かせようと思えば、ということですが…

結構こういうのが弱い人も、たくさんいるみたいですね。



写真 de 人格論

疲れてボーっとしてるときに昔の写真をもう一回見ることがあるんですが、同じような写真なのにどうして微妙に感じ方が違うのかということが気になって仕方なくなりました。


これはもうちゃんと構図の勉強をするしかないんでしょうが、真剣に考えてみました。


ここに写真が5枚ありまして、去年の秋ごろ城崎の北側の海岸で撮影したものです。



真ん中に被写体。で、上から空、海、砂浜です。今から載せる写真の中で、もっともその割合が1:1:1に近いものです。全体的に暗いせいか、あんまり楽しさは連想させません。なんとなく気になるのが右上の光。これを勝手にテーマとしましょう。「救い」です。






次はこれ。被写体の歩き方に躍動感を感じるとともに、テトラポットに跳ねた波とか動きが目につきます。「開放感」です。






同じような写真ですが被写体の大きさが違います。こうなると後ろの景色にあんまり目が行きません。


が、空がやや大きめに割合をとっているので明るさは目に付きます。秋の日本海には見えず、全体的に穏やかな感じがします。「休日」です。






後ろから撮るとこうなります。向かっている先が見えるので、目的を写すことになります。先にはもちろん海ですが、背中を大きく見せながらなんかちょっとした段差を上がっているところとか含めて大きなことをやってくれそうです。「決意」です。







上と似てますが、全体的に暗い。海も荒れてます。被写体の足取りも重い。


上のと比べ、やややる気が感じられません。目線の先には目的があるはずですが、あまりいいことではなさそうです。「憂鬱」です。








ごらんの通り、構図、視点、光の入れ方、選択する動き、等々によって大きくテーマが変わる





このときの僕は、別に落ち込んではいないし、何かを特に決意したわけでもなければ抜け出したい環境があったわけでもない。とすると、「いい写真」を「状況を正確に捉えている写真」とこの場では定義すれば、3枚目か4枚目が適当ということになりそうです。少なくとも僕にとっては。








でも写真を見るのは第三者も含まれるので、広く受け入れられる写真となるとまたむずかしそうです。



「気になる写真」でその人の心模様がわかるか?



勝手な希望ですが、わかって欲しいです。なんかそんな心理テストが、ありそうですけどね。







でもそう考えると、「よく状況を捉えているもの」という点において写真というのは、絵画に比べてはるかに難しいのではないでしょうか?絵というのは、まあ作者の判断で色を誇張したり、それを含めてやり直しがきく。写真もたしかにパソコンに落とせば編集がききますが、フィルムの一眼レフなんかで撮るとなるとそれこそいろんなことを考えながら撮ってるんですかね?






祖父がなくなったとき、遺品である一眼レフをもらいました。「祇園」という立派な名前をつけました。



が、よー使いません。使い方に関しては説明書読めばすむだけの話なんですが…まあやから、構図とかね。



でもこういうのって、勉強するより独学のが面白いと思うんです。たぶん自分の場合、そのおおざっぱな撮りかたを知ってしまうと、がっちがちに型にはまって、自分の考えてることが写真に出なくなる、と生意気に考えているので手を出すのがちょっと怖いわけです。方法だけは知っといてもいいと思うんですが。


こっからは本当になんとなくの話ですが、被写体の大きさとか構図、明るさ、動き等の違う写真のうちどれを好きになるかで、性格が出るんじゃないかと思っています。僕がこの5枚の写真を見比べて、(半ば強引に)テーマの違いを感じたように。で、好きな順番も言えたように。








ひょっとしてその日の気分によって、惹かれる写真が違うかもしれない。たぶん、そうだと思います。でも「いつ見てもすーっと入っていける写真」というのは、たぶんその人自身です。かっこいい言い方をすれば。この仮定が本当なら、なんか素敵な話やと思いませんか。










2008年12月15日月曜日

The Art of Origin

かねてより、男が女性の身体のラインに目をやってしまうのは単なるエロ心からではない、と申し上げておりました。

じゃあ何だよ、といわれるとそれは「芸術を愛でる心」です。つまり、男にとっては芸術品なのである、かいつまんでいうとそういうことです。


何でこんなことをいきなり言い出したかというと、支持者が見つかったからです。
http://booklog.jp/users/riceshowerst/archives/B0018RPPIQ

書いてるのは僕ですが、映画に支持されました。


さて、本日15日は京都でこんな催しがあります。
http://www.tedukuri-ichi.com/

これはいっとかなあかんなあとは思うんですが、なかなか時間が合わず…
来月こそは…

景気が悪くなると、まず煽りを受けるのが嗜好品と広告費。
このような催しをなくさないために、ブログを続ける身としてホンマにちょっとやけど貢献しときたいと思います。

2008年12月8日月曜日

去勢しろ

怒涛の本日3件目です。しばらく忙しかったのでまとめてやってしまいます。


また変態による幼女殺害事件が起こりました。
容疑者が軽度の精神障害を負っていることを知りながら僕があえて変態呼ばわりするのは、少なくない障害者が望むとおり本人を一般人と同じ扱いにしているからであり、少なくない障害者が被害妄想の限りに叫ぶとおり障害に対して侮蔑的な態度をとっているからではありません。

普段障害者の保護者なんかは「この子も皆さんと同じ普通の子なんです」といいながらこういう事件を起こしたら「この子は特別なハンデを背負っていまして…」と言い訳する。人を殺しといてそれはねえだろう。高校卒業後布団会社で普通に働き、一人暮らしをしながら仕事が嫌でやめ、それで責任能力がないからって言うならはじめっから一人暮らしなんかさせるなよ。と言いたいです。

だいたいテレビの取材で嘘ついてんねんから、悪いことっていう自覚があったんやろう。


差別、という言葉は人と違う障害に向けられることにのみ用いられるべきで、ひとつまかり間違えば普通に人を殺しうるっていうとこが問題なんです。B2クラスの障害を持つ人がみんな幼女趣味なんかといえば違うやろうし。


障害を持ってる人が普通の人と同じように生活してるんなら、普通の人はまたそれと同じように生活してる。それを妨害する行為は憲法レベルで認められているにもかかわらず、精神的に人と違うものを持っているからといって「あの人は何やらかすかわからんから」っていう緊張を含んだ姿勢で接しろというのか。それが本当に望みなんですか。それが差別ではないとでもいいたいのか。都合が良すぎるわ。


ある障害をさして軽蔑的な態度をとる人なんてもう成人になればほとんどいないと思いますが、「自分と違う、何をするかわからない」っていう警戒が「人と違う扱い」になるんだと思います。「この人に殺されても文句が言えない」っていう警戒も加わります。そんな相手とどう接するか。僕が思うに学校レベルの道徳教育では答えになっていません。

裁判員制度が始まりますが、こういう質の問題に裁判員がどういった裁きを導くのか非常に興味があるところです。現在死刑賛成論者は反対する人より多いという調査もありますが、それが何人か集まって議論すれば死刑という結論には至らない、というのが僕の直感的な持論です。なのでこの手の問題に関しても、何か今迄から変化のある答えが導かれるという期待はあまりありません。どれだけ怒りを感じても、道徳的な問題をはらむ限り論理的に量刑を導くということが不可能だからです。ましてや普段個人の仕事を休みながらの裁量。裁判に集中しろなんて虫が良すぎる気もしますが…



あと、近隣住民にとって、いい人かどうかを決める基準がなぜ毎回「自分に挨拶をしてくれたかどうか」なのか。
思うにそれしか接点がないからであって、それはつまり近隣住民自身が「ほとんど知りません」ということを露呈しているのではないか。僕は「挨拶のできるいい人だったのでとてもそんなことをするような人には…」という発言は、時間の無駄なんで流す必要はないと思っています。まあ今回は、挨拶のできない人だったようですが。

マイハートウィルゴーオンアピクニック打法




昨日は所属しているフットサルチームの試合がありましたので出場してきました。


5試合して2勝3敗●●●○○。昨日の播州地方は朝の気温がマイナス3度とかだったそうで、身体ががちがちで全く走れませんでした…




4試合目に相手のシュートを頭に受け、一瞬膝に力が入らんかったときはてっきり他界したと思いました。








ところでジャパンカップダートでカネヒキリが優勝しましたね。


故障からの復活、ということで買ってもないのに喜んでしまいました。




日本のダート界では、海外ほどG1が整備されていない(中央ではフェブラリーSとジャパンカップダートの2つのみ)ので、種牡馬として評価されたい中央のダート馬は地方の交流G1に参加するしかなくなります。しかし交流G1になると中央とは違い賞金が少なく、種牡馬としての評価もあがらないため現役を続行するしかなくなります。G18勝のブルーコンコルドやら7勝のヴァーミリアン、今回勝ったカネヒキリもすでに4勝していたにもかかわらず骨折しても現役にこだわった理由がそれだそうです。こんだけ強いのに、大変ですね…



G1のない夏場か、年末の東京大賞典をJRAのG1にしてもおもしろいんじゃないでしょうか。



試合後、氷点下の中〇橋と打ちっぱなしに行きました。相変わらずドライバーが当たりませんが、50ヤードぐらいのアプローチで才能の片鱗を見せました。新打法を開発したのです。
その名も…

ルミナリエ2008







今年もルミナリエ行ってきました。14年間皆勤を守っております。
来年も続くように、100円募金に協力してきました。
ルミナリエは毎年採算がとれなくなってきており、いつ終わるかということが話題になる震災からの復興復興イベントですが、不況で企業からの協賛が減った今年、期間を去年よりさらに短縮して開催しております。15年目ときりのいい来年あたり、そろそろ潮時なのかもしれませんが、やめるなら開催前にいう(集客効果)であろうのでまだわかりません。
写真の3枚目がその募金の図(横から)なんですけど中央の鐘をめがけて100円を投げて見事当たるとなんかちょっと嬉しい効果で親御さんに小銭をねだる子供がいたりして、思う壺でした。ちなみに僕もその一人です。「100円募金」と定義することで5円玉より100円の投入率も上がったことでしょう。
ちなみに今朝の神戸新聞の1面に、「売れないルミナリエ宝くじ」と載ってました。いろいろやってんなあ。