I’M HERE

自分の写真
トータルライフコンサルタント 相続診断士

2011年7月12日火曜日

事実は小説より奇

僕は小説は読まない。
正確にいうと、いつの間にか読まなくなった。

あれは小学校時代だと思うが、読書家の父の勧めで故井上ひさし氏の小説を何冊か読んだ(『吉里吉里人』とか『ドン松五郎の生活』とかそのへん)覚えがあり、そののちいつだったか自分で井上氏の小説を買ってみたのであるが、正直なところ以前読んだときの感動に似た感じがなくて、ただ漠然と字面を追っているだけになっていることに気づいてしまったのである。


以来、小説は読んでいない。


大学に入って一人の時間が沢山でき、その合間を縫って読書を始めたが、読むのはもっぱら新書の類で不自然なぐらい(それこそゼロ)小説を読まない。多感で社会に目を向けだした時期だったので、『事実』が書いてあることが絶対条件だったのだ。
同じ時間を割いて読書をするのであれば、やはりその後直接的に役に立つ方の情報を入れておきたいという変な焦りもあった。


ただ、今になって思う。
『同じ時間を割いて読書』という書き方には、どうしても『やりたくはないが必要にかられて』というニュアンスが僕には感じられて、それがゆえに作者の世界には引きずり込まれないどうしてもちょっと冷めた視点で字と事実を追ってるだけなんじゃなかろうかと。だから著者について、異常に不明なのだ。


特に年配の方と話すと、あの小説読んだことあるかとかあの著者はどうだとかそんなことも知らんのかと、いわば一般常識のようになっている本も沢山あって、教えてくださいとか今度貸してくださいとかいう話になるのだが、僕が小説を好んで読む日はまだ遠そうだ。

2011年7月10日日曜日

捨てられない

『文化財復元無用論』 山岸常人氏

復元するということは当初の形態のみに価値を認め、その後建物が経てきたさまざまな歴史には評価を与えず、消し去ってしまう行為であるところに問題がある、ということが1つ。

もう1つは遺跡の復元などに典型的に見られる現象だが、上物を復元する際復元根拠が曖昧というか怪しげな部分が多い。想像に頼らざるを得ない場合が必ず出てくる。そういったことが学術的に許されるのか。

復元は歴史資料の消去につながり、ひどい場合は捏造につながる場合もある。




先日長野県を中心に震度5以上の大きな地震があり、松本上の外壁にひびが入ったことが大きく報道された。
他の歴史的文化財同様、保護してしかるべきだと思ってたけどこういう考え方もあるのか。

保存技術のすごさには目を見張るばかりで、ボロボロになってた化石だろうが土器だろうが、ほぼ『完璧に』修復してしまう。復元した対象のニュアンスをつかむ分にはいいのだろうが、それ以外に不必要と思われるものには使わない。そういう姿勢が必要なのかもしれない。

特に、だいぶ古いものに関しては。


国の文化予算は驚くほど少ない。
由緒正しい神社なんかの大工事があろうもんなら、他に回るお金がほとんどなくなってしまう。不必要な修復を避けて、崩れていく遺産の惜しむべきを惜しみ、新しい才能に投資するやりかたこそ、何百年後かの世代のためになるのではなかろうかね。

博物館に行って、展示されてるのが携帯電話とパソコンだけじゃちょっと切なかろう。

2011年6月21日火曜日

終わりが見えない・・・

6/6
嫌な上司の下で働かないといけない状況など、正社員だろうがバイトだろうが、多かれ少なかれ経験する。「上司が嫌やからシカト」「話にならんから欠勤」は子供のやることじゃないですか。8月退陣の後、大連立を模索してるようですが、本当に今不満に思ってることを自分達なら変えれると思ってるのか?


6/6
日本は特に最近、なんか嫌なことあったら首相交代させてきた。なんか変えてほしいことあったらさせてきた。そのたびに事態は好転したのかよ。次から次と一からやらせて、うまくいかなかったら交代。首相を、上司を、全能の神かなんかと思ってるのか?


6/6
こういう人はどうせ普段の生活でも、うまくいかないことや嫌なことは人のせいにしてきたんだろう。どんな素晴らしい(と言われてる)社長を掲げる会社だろうが、実際に働くのは社員なんだよ!てめえらの責任だ。うまくいかなければ、話し合え!最低限そっから逃げんじゃねえよ


6/6
自分では何もできない上文句だけ垂れ流すばっかりの社員の首など切ればいい。ただ、今回ばかりはそうもいかない。奇跡的なことに、こんな子供じみたやりとりそのものを糾弾しようという風潮の、欠片さえ見当たらない。もうやめる以外ないだろう。それが被災者のためだ。


6/6
ただ、こんな馬鹿げた寸劇はもうこれで最後にしてもらいたい。復興を遅らせてる責任の多くは己の権力にかまけて現場で足を引っ張る面々。僕は議員にはもっと、普通の会社でキャリアを積んだ人が多くいてもいいと思う。

潔癖なんだろうなと思う。
なんとなく、うそくさいのとか腑に落ちないこととか、100パーセントじゃなければ避けようとする気持ちが湧き出る。
大学のテスト前なんかは授業に出てもないくせにわからないことがあればとことんつきつめようとしたせいで友人に迷惑もかけたし苦労もしたものだ。


100パーセントじゃなければ避ける、というスタンスは現行政権に対する姿勢にもあてはまる。
今の政権が(まあ正直何がわるいのかはっきりしないけれども)ダメだとして、次の政権がうまくいく保証なんてどこにもないから、というか今まで政権変わったってうまくいかなかったから、そのまま頑張ってもらおう。
ダメなところは有権者も含めて補っていこう。
100パーセント完全な人間なんているはずない。

というところに、自分の矛盾があるのです。

2011年6月18日土曜日

備忘

最近昔のことをよく思いだす。
自分のことでもあるし、人のことでもある。


昔を思いだすのは今に満足していないからだという人もいるが、僕はそうは思わない。むしろ今は、昔のことに思いを馳せる余裕がある、といっていい。



近所に友人が住んでて、彼女の家は一度火事にあったことがある。もう15年以上まえだと思う。
ほぼ全焼に近い半焼だったそうで、奇跡的に死者も、延焼も出なかった。
わりと裕福な家庭だったが、それにしても早く、しかも綺麗な家が建った。


ほどなくして、彼女はグレた。
理由は知らない。


そこで僕は収斂ということばを強く意識した気がする。
裕福だからぐれてもプラマイゼロ、裕福だが娘がグレてプラマイゼロ

プラマイゼロであることを、知らず知らず求めるのだ。
そこから抜け出そうとしたり、そんな人生つまんねえぜっていう人は、収斂に対するコンプレックスなんだと思う。

何より自分が、どんどん平均直線の上に乗っかりつつあるのを、自分が許せないというような。

2011年6月2日木曜日

消えた怒り

4/30
国債増発して日銀に引き受けてもらうという必殺技が借金増やすのもなあっていうテンションで封印されつつあるが、そもそも国債ってそういう目的なんやからその反論はおかしい。


4/30
でもその反論が説得力を持つのは、『今まで緊急でもないのに乱発したから』ですよね。だから肝心なときにできない。少子化にしても、人口が減ること自体は大した問題ではなく、むしろ自然だが、焦ってるのは制定と同時に破綻していた年金制度があるから。


5/11
年金の積立金が復興費にあてられるらしい。先に取り崩すとこ(外貨準備等)あったと思うが…。暗闇で手を振り回すような状況になってないだろうか


5/11
 「将来貰えんかもしれんから払うか払わんか迷ってるけど良心の呵責とかで払う」ていうギリギリのとこにいる若者の心を完全に折ってしまうことになるとは思わなかったんでしょうか?






でかい声で言えないけど僕は年金をもらえるとは思っていない。
払わないこととは別なので払ってますが。


もはや僕らの世代の納めた年金など、偉そうなオジサンたちの失政の穴埋めに当てられている、ぐらいの意識しかない。でも、もらえたらラッキー。だから「もらえないかもしれないことを半ばあきらめ気味に受け入れている」ことを表明したくはない。→つけあがる


というスパイラルに自分で勝手にはまってて、もう抜け出せない。
そんなに年金が大事ならば社会保険庁にでも就職していただろうから、もういい。




ただ浜岡原発を止める止めないのどたばたの間に、こっそりと震災復興費に年金の積み立てがぶち込まれた、その理不尽さに怒りが隠せなかったようです。
人の年金消したからには、ちゃんと話し合った上で使ってください。あなたたちは我々の(僕は除く)の代弁者で代表なのに、いったい我々に対してなんでそんなに偉そうなのかと。

2011年6月1日水曜日

流行の作り方

4/29
地球人の三分の一が見ると言われているロイヤルウエディング。しかし奥さんの綺麗さをさっ引いてもなぜそんなに見るのかわからない…



 糸井 重里 
 touri_takuoがリツイート

オルフェーヴル


2011年5月25日水曜日

音力発電という未来

4/23
首都高の地面のしたに発電機を埋め込んで「音力発電」すれば、原発3基分の電力を作ることが可能と道路公団が発表したことが、噂になってる。
4/23
まあ、そらそうやわな。原発がそんなに安全なら、東京に作れば良かった話。福島をはじめとする地方と首都圏の信頼関係が崩れた今、自家発電が正しい。
4/23
明治の開国後、または神武いざなぎ、それぞれ教育や設備投資などのインフラの充実が招いたもの。電力インフラを整えることで何十年か後の安定した成長が見込める、ということが当然ある。
4/23
いわば電力の地産地消。これが一番スマートじゃないでしょうか。自分の地域で生んだ電力(音力の場合は交通量)によって町を育てる。余ったら余所に売り、必要であれば余所から買う。電力オークションの可能性を模索する声も、大きくなってます。
4/23
一度は成長が止まるでしょう。でも設備投資によるものであれば、日本のバランスシートを確認さえしてもらえば、けして経済的に日本の評価を下げるものではない、と思います。




震災以来、経済経済うっせーよという立場をとってきましたが、もちろん完全に無視するわけには参りません。他に大切にすべきものがあったとしても。


日本が大きな成長を遂げた背景には、ほぼ間違いなく何かしらのインフラが整った、という歴史上の事実があります。
今回の震災を糧にするならば、この電力問題は大きな案件になるでしょう。原発をどうするかに始まり、代替電力の供給問題にまで踏み込まなければなりません。


原発が他の発電方法に比べて安価だというのは覆しようのない事実ですが、だからといって音力発電のインフラ整備(地面掘り起こすとか)で二の足を踏むのはもったいない。時間の無駄です。大きな犠牲を払った意味がない。




具体的には、ありとあらゆる道路に発電装置を埋め込むことを大目標として、「自分とこで稼いだ電力を売ってやりくりする」という感覚が必要でしょう。
そのためには、おらが村のいいとこを的確に広報する必要もあるし、そこでいかにして客のハートを掴むかといったような地方改革論議にまで話が及ぶ。地方の独立性、分権も守られる。


余った電力は国が買う。そして足りないところに売る。「電力に値段」という概念を導入します。
効率の悪いことをやってる自治体では、国から電力を買うことになりますから、どんどん電気代が上がる。住民にしてみれば首長を評価する明確な基準がここでできあがるわけです。


少量の電気で町おこしができるもんならみんなそこに向かうでしょう。
そうするとどうなるか。
電力の需要が減ると値段が下がります。最終的には一定のところで値段は保たれますが、今よりは低い水準を保つことになる。変な談合さえなければ。無駄な照明を使わない景観が増えます。




この過程で経済は停滞し、最終的には縮小するでしょう。
望むところです。
無駄さえなくなれば、あとは各自治体が、知恵を絞ることになる。しがらみを取っ払って自由を与えると最初にはカオスが訪れますが、そこには信じられない想像力と爆発力が生まれるのです。

武田双雲先生の個展@梅田大丸

4/22
今から都会の方に帰ります。仕事の一貫と称してずっと気になってた武田双雲先生の書道展を見に行く。Twitterなんかでは心が洗われると評判ですが、果たして。




既に認知されているように単なる書の域は出て、絵画で言う遠近法を駆使した芸術作品。
ツイッターなんかでファンが絶賛しているような心の洗われるような、というよりは(個展の空間は癒し満載)、こんな発想があるのかとただ感心して見入ってしまった。


実際、いろんな批判があるようです。
由緒ある流れをくむ書道家なんかからはあれは書道じゃないだのうさんくさいパフォーマーだのいろいろ言われていますが、僕はこんな書もありだと思っています。誰かが興味をもって、芸術的なものをその作品にみとめれば。




筆遣いがきっちりしていなければ、思い通りに字体を崩すことすらままならないのです。
やってみて思いましたが。




先生に触発されて、書道アプリをダウンロードしました。
「触発」と書いてみましたよ。

mixi退会に寄せた vol.2

4/21
しかし、「女性の方が違うことを同時にできる」という見解とブログとかSNSへの姿勢というのはすごく関係あるような。


つまりSNS付き合いが巧いというか。他人の他愛もない日常の出来事への接し方が巧く、それを取り入れるにしても容れないにしても、自分の生活を全く邪魔しない。「なんとなしの嘘っぽさ」にも上手に付き合い、精神衛生を汚すことが少ない。違うでしょうか。






ミクシーにおける女性の占める割合は52パーセントで、他のSNSに比べて高い数値ではあるもののそんなもんなんかー、という感じでした。
他の媒体に比べて、ログインユーザー数が多い(2010年までの資料を参考にしており2010年3月からログインユーザー数は減少傾向)ねんから結構な違いなのかもしれませんが、それにしてもあんまりでした。


ユーザー数の減少に合わせてもちろんPVも減ってくるわけですが、この「SNS付き合いが巧い」という仮説が成り立つのであれば、「ユーザー数の減少より急にPVが減る」という数字が出そうな気がするのでちょっと気にしてみたいと思います。



mixi退会に寄せた

4/19
誤ログインを繰り返すたび考えた結果、日記をブログで、人様に見せるほどでもない備忘録はエバーノートで、SNS機能はツイッターで勝手に堪能すれば、少なくとも僕にとってはmixiは全く必要のないものになってしまった。これがいわゆるコンコルドの誤謬ってやつか…




Evernoteもいらねえ・・・残念だよ・・・
彼の場合は、PCで使うとウインドウがでかいのでまだ使いようはある。用事の整理とかに使ってる。


mixiに関しては、もはやネット世代のおもちゃみたいになってるから、いい加減趣味が合わなくなってくるはず。今や犯罪の温床としてしか認知されなくなってしまった。これについては“なぜSNSは出会い系サイト化するのか?”で一度考えてみたけど自分の検証がちゃんとした説明になってなかったから、今はもうわからないしその必要もない。


けど多くの人が「なんとなく」続けているらしい。
日記もいっぱい残して、友達100人できて、写真もいっぱい上げて、もうやめる理由もない。
写真の保存に関してはツイッターとかでは相手にならないし、いいとこもなんかある。


乱立するSNSの中で、宣伝に成功したFacebookに、お客さんが流れてるらしい。
僕はやってないけど、おそらくFacebookをやってみて初めて、mixiのおもちゃっぷりに気づくだろう。
ただそのためには、「SNS」の意味を理解して、共感しなければならない。
ただ漫然と日記書いて写真上げるだけの時間は、みんなあるからね。






補足:コンコルドの誤謬(引用)



それでもやっぱり梅が好き

4/18
造幣局で本降りなう。




2度目の造幣局に行ってきました。
前回はおそらく7年前。微妙な場所にあるから行きにくいんよねー


一番綺麗やった子。
名前は忘れた。紅・・・なんとか?




葉桜の方が綺麗やと思うんですが趣味悪いんかな・・・



空に向かって生える珍しいタイプ。その名も天の川。



で、ばれたと思いますけど今回も曇天です。
カメラの設定いじってもここまでです・・・
そしてこの後、本格的に降り出し、雨に濡れながらショーロンポーを食べたそんな今年唯一のまともな花見。

ブログ疲れ解消案

4/8
一応海外ではあるみたいやな。 ただ、高い…ごっついカバーいらんから、電子書籍化して10円とかで売れば流行るんじゃないんかと思うけどどうでしょう。 RTブログでは自分のページを書籍化できるらしいけど、Twitterでもできるんかなぁ。できてもやらんと思うけど




ブログ→本はある。
ブログ→ツイッターもある。


なぜツイッターからブログがないのだ!!
そうしたらブログの投稿がもっとお手軽にできるのに!!


ゆっちゃなんだが、芸能人がしゃーなしでやらされてるブログなんてのはほとんどツイッターで事足りるレベル。写真とって、一言添えればよい。
けどツイッターやと、どうしてもレイアウト上の制限がきつくて告知とかブランド性とかを押し出すにはインパクトがたらんのよね・・・


で、我らが趣味の領域に反映するため探してみると、一応あることはあるが、その日一日のツイートが全部箇条書きに並べられるだけという悲惨なものだった。


ブログ疲れが目立つ若い層にうけると思う。
そのうちでてくるのを、待とうか・・・

何となく明るい

4/8
『日本では対戦相手を敵とは考えず、相手というふうに考える。だから負けても破滅ではない。』アルベルト・ザッケローニ

(クーリエジャポンより)

どうやら震災直後の日本人の姿勢に感動して、クーリエから抜き出したものらしい。

昔ドイツでサッカーレフェリーの実習をしにいった経験のある湯浅健二氏は著書の中で、海外選手は日本じゃ考えられないぐらい自己主張をし(これはよく言われる)、チームのためにといって他のチームメイトに本気でキレる、と言った。

中田英寿が海外で得た経験を持ち込み、その習慣を代表に適用しようとして孤立した、という噂が流れたことがある。日本の場合は、チームメイトにキレてまで得られるものが少なかった。せいぜい代表で強くなる、というものだったろうが、ランキング上位のチームにはかなり差をつけられた状況、プラス海外に移籍して己を磨いたり多くの給料を得たり有名になったり、といったことがまだ少なかった。はっきりと見える目標がなかった。


今回アジアカップに優勝して以来、海外のクラブが日本人選手に食指を伸ばし、多くの選手が移籍した。ザッケローニが称えたこの姿勢が、変に海外にかぶれた選手によって薄まることがないように祈りたい。日本の強さは団結力、とやっと世界に認められたから。

2011年4月15日金曜日

転向~7・嫌われたいんかな

先にも述べたように、経済学の中では人間は完璧なまでに合理的で、その合理性は各々が各々の利益を追求することによって満たされる。逆に言うと、己の利益を合理的に追求しないような人間は、人間と見なされていない。

『己の利益』には道徳や悲しみ喜び、またそれを理解できる人間の質など、金に置き換えられないものは含まれない。
たとえば、津波で壊れた店から商品を盗む(利益プラス)ことやら、サッカーのチャリティーマッチのチケットをネットで転売して儲けることなど、経済学的見地に立てば、いとも簡単にやってのけることはできる。

さらにもっと言えば、被災し寝泊まりする場所がない少しお金のある人に対して、需要の高まりを背景に宿泊費を釣り上げること(残念ながら事実として起こっている)なども、そんなに経済が大切であれば正解だ。



普段有料の温泉施設を無料で解放したり、3月分のメール料金をタダにしてくれたり、炊き出しに参加していくら人に感謝されようと、彼らにとっては『機会損失』という名の損失でしかない。


ここまで考えて、話には聞いてたけどいかに人の気持ちの汲めない学問か、思い知らされてしまった。
どんな反論が出てきてももういいよ。支持しません。

2011年4月12日火曜日

転向~6・回りまわってFIFA賛美

今日、プロ野球が開幕した。
本来から2週間以上遅らせた開幕で、電力の供給が間に合うまでナイターは自粛するようだ。

開幕延期反対派で読売グループの会長である渡辺恒雄会長は延期が決まった時点で、自粛派に対して「勝手にしろ!」とブチギレていた。
野球が世間を励ますと信じている人と自粛すべきとする人との世論の比率は、3:7ぐらいで、他の論争と比べて圧倒的に自粛派優勢だったと記憶しているが、これは娯楽活動が経済活動に比べて市民権が認められていないということだと理解した。少なくとも今じゃないという自粛期間は、当然長めに設定された。


昔ファイナルファンタジー10の中で、シンという大災害(のようなもの)にある町が破壊され、その直後に開催されたブリッツボールという競技の大会が開かれ、破壊された町のチームも含め全てのチームが出場し、国民はそれに熱狂する、というくだりがある。これが全てとは言えないが、いつどこで同じ目に見舞われるかわからない国民にとって、最大級の責任感と、同情と、そして誇りにも似た災害に負けない強い心が、そこにはあった。


おそらく電力事情がなければ、そして(共感を得るという意味では)震災がより頻繁に起こる状態であれば(起こらないことを望む)、会長の姿勢はもう少し支持されたのかもしれない。さらには、野球開催が支持を得るには圧倒的に、海外で活躍するサッカー選手のメッセージがスマート過ぎて心を打った
またこのゴタゴタによって、新井選手会長にとっては本当に不運なことに、野球界は株を下げた。


いかにFIFAがどす黒い問題を内包していようと、サッカー選手の深い同情の精神とその強烈かつシンプルな発信力は感動に値する。
震災直後の試合で得点したエトーは長友を抱き、ベルギーリーグの降格のかかった最終戦ではチームメートが川島と川島の母国のために戦うと公言し、どの試合でも会場には日本を応援する横断幕、試合前には黙祷…
枚挙にいとまがないこの事例は、人道問題に言及し続けたFIFAの努力の賜物と、そこにプレーする選手の質、発想力によるものだろう。もちろんメジャーリーグでも同じ類いのものはあった。しかしこんなに伝わりかたが違うのか。

野球選手は大きな問題を越えた。
今度は自分の中にずっとくすぶり続けた被災者への思いを、思う存分発揮する番だろう。

2011年4月11日月曜日

転向~5・情報の非対称

今日で地震発生から1ヶ月が経過した。
地域の道路は世界が驚くほどのスピードで復旧し、被災地以外の近郊の観光地には日本人観光客が戻りつつある。

しかし昨日の晩のNHKの番組で福島県の佐藤知事が半ギレで「原発問題は進行中です」と言っていた通り、今や徐々に拡がる被害状況よりも、汚染物質とともに拡がる風評被害の方が、大きな関心ごととなりつつある。


福島というところはご存じの通り農作物の産出量がとても多く、種類も豊富なところである。そんなところに原発があったこと、そしてそのことには何となく目をつぶって食べてきたこと、福島の原発で発電した電力は、福島の人達でなく都心の方に送っていたことなど、なんとなく理不尽というかなんでそんなことになってしまったのかよくわからない。
地域住民は原発に雇用されたりしているので、今さら文句も言えない人がいる、という沖縄の方で聞いたことのある話も聴こえてくる。


風評はイメージに直結するが、それにはいいものも悪いものもあるはずだ。
福島で作った野菜は有名ではあるが、すぐ近くにはすでに事実として原発があって、それでもみんな食べてた。科学的には全く異常なしと立証されていたとしても、レストランではお手洗いのそばの席を避ける心情と似ているかもしれないが、席がそこしかあいてなければ黙って食べて帰ったりする。


さていざ今回のように恐れていたことが現実となり、観測機のメーターが振り切れるほどの放射線物質が検出されて、「風評被害に悩んでます」というときの「風評」って一体なんだろう?

安全性を強調して、今まで放射性物質が飛び回る可能性に蓋をして日本有数の産地になれたのは、明らかに風評操作であるし、観光地としての魅力を風評によって失った当該地区のちょっと外側の旅館が喰らったのは果たして風評被害か?だとしたら被害者は一体誰だ。いやだから風評ってなんなんだ。

2011年4月8日金曜日

転向~4・自粛反対の効果

正直言うと、声高に「自粛に反対!みんなで金回して、経済回すことが、何よりのお見舞い!」という言葉に、一体どれぐらいの正当性があるのかがわかりません。僕が聞いてる限り、ちゃんとした説明がなされないし、よしんばうまいこと論理の筋道が立ったとして、思う通りにいかなかったことを思い出せば、いかにその努力が不毛かがわかろうものです。
どうせみんながみんな理解できるわけではないその話に、「買い占めはやめて!」っていう切実やけど簡単なお願いですら、自分さえよければいい人達は守れない。「みんなで金回そうぜ!」っていう話が、それ以上に理解されることがあるでしょうか。


結局自粛反対派の言ってることというのは、とても真っ当なことを言ってるようで単なる感情論なのではないかという気すらしてくるし、なんなら一時期のエコのような胡散臭い感じが漂ってくるわけです。その怪しい宗教じみた主張に正当さを与えるために、なんとなく理解できそうでできない経済学を持ち出してくるその下衆な感じにイライラしてるんだと思います。
残念ながら経済学は、 経済危機を解決するためにすら派閥の争いを生んだだけで(シュンペーターの株が上がったり)肝心なことに役に立ってませんが、極めて感情的な話に適当な説得力を与えるだけの学問になってる気がするのですね。


あと、残念ながらここで普段よりちょっと多目に消費したところで、お金が回って経済が活性化して被災者に回る、というのは夢物語だと思います。やるなら構造改革であって、政府の役目です。残念ながら今は各党の思惑しか回ってない状態なんでしょうが…



被災地の商品を買って(野菜、地酒)云々、というのは直接的で最もわかりやすい支援だと思います。
ものを通して心を貰う、というこの方法は、反自粛派と反対の道ではないと思います。心の表し方は人それぞれだと思いますから。

2011年4月1日金曜日

転向~3・天罰

石原慎太郎都知事の『天罰発言』は発言直後、メディアによって放送された。
「資本主義とか個人主義って最近行き過ぎ」というニュアンスを端的に示そうとし過ぎて大失敗した感じだが、一旦この発言を受け入れてから「あれ?今のおかしくね?」と思ったことを覚えている。そして、それぐらいテレビでもさらっと流れた。

こんなんよく被災地が許すなあと思っていたのだが、それもそのはず、そもそもテレビなど見れる環境にないし、よしんば見れたとして怒りを発する術も、またその時間とか余裕も、さらに言えば人の気持ちのわからない人に対してそんなことをわざわざ注意してやる義理もなかったのであろう。次の日になってようやく批判されたことが報道された。


それにしても理不尽にも家族や友人を突然失った人に対して「天罰」とは、全くひどいものだった。
もういい加減批判は出尽くしてるし、彼も選挙前にやってもうた感満載で謝罪し、原発がらみで涙流してみるなどイメージ回復に忙しそうだからこのへんにして、言葉の真意をちょっと考えてみる。


行き過ぎた個人主義にこの場を借りて文句入れた、というところで、被災地じゃ人間は一人で生きていけないだろう、自分の利益ばかり追うのはやめなさい、ということだったと思う。


しかしこの発言は、普通に言えばわりかし真っ当なことに聴こえるのに過激な字面を追われて(いやしい仕事発言の余波とかあったのか)被災地の方では彼に言われなくともごく自然に行われているようで、杞憂の上勝手にイメージを下げただけで終わってしまった。
個人主義どうこうと言う問題は以後問題になるかどうかはわからない。
ただ安全の確保についての個人間の連携は話題に上がるだろう。
そのためにTwitterなどのSNS が果たす役割は大きかったわけだが、デマが多かったとかで非効率が多かったようだ。


「未曾有」って言葉の意味を考えれば多少の混乱はもちろんあるだろうが、専門家同士「意見の擦り合わせ」があんまりない印象だった。みんながみんな己のフィールドで投げて打ってするから、球拾いの僕らが大変だった。原発の情報も毎日修正されて、どこまで信用していいかわからない。
デマが流れたことについては、東電の責任は見た目以上に大きいと思っている。

転向~2・喪ってなんぞや

震災後早々の経済活動を自粛するブームに、正当な理由を与えそうな概念は「喪」である。
厳密には故人の親族が祝い事などを一年ほど避ける期間であるが、国によっては大規模な災害やテロなどで大量の死者が出た場合、国ごと服喪期間をもうける場合がある。

日本にはこれが今のところないので、あえて経済活動などを自粛する理由はない。
したがって、ややこしいことに「自粛を自粛」派にとってはその立場を曲げる理由がない。

しかし服喪というのはもともと「自ずから」故人の親族友人、または万単位の死者を出したこの事実に心を寄せ、もって故人をしのぶというものだから、それができない人にあえて強制する性質のものでもない、という事情がありそうだ。これが「一旦自粛派」と「自粛を自粛派」が表だった争いをしない理由のような気がする。


人が死んで悲しくない人はいない。(と思いたい)
あえて明るく振る舞うことで、または普段通りに生活することでしか、悲しみにくれたり気分の沈みがちな自分をコントロールできない人もいるだろう。

しかしながらあえて公の場で(ある程度影響力のある人間が己のSNSアカウントを利用して等)「いい加減自粛すんなよ」というのは大いに違う気がするのである。
彼らは上記のように「人の死より大事なものがあるという(服喪派にとっての)淋しくて殺伐とした社会」で生きていることを大体は許容、というかスルーされていることに気付くべきだと思う。
あえて文句が出ないのは、「自粛を自粛派」には説明しても理解されない内容であるし(結局当事者でもないし)、一から説明してわかってもらう話でもない、ということなのだが、被災地に情報が完全に行き渡るようになってからどうなるか。


もはやとっくに地に落ちた日本の経済事情を惨めにも守り抜こうと、鼻クソみたいなプロ意識を公にあえて披露した彼らがいずれ経験するのは、誰も心の底から自分を偲んでくれない自らのお葬式であろう。

というか、今では心底そう願っています。



誤解のないよう書いとくと、全員一週間喪に服せというつもりはない。
ただこの繊細な問題を前に、わざわざ起こさなくていい論戦を起こすなということなのです。



要は人の心を重視したい人達にとって、GDPがどうとか、自分の給料がどうとか、ピンとこなさすぎる、という話なのではないでしょうか。

2011年3月30日水曜日

転向~1・経済学的立場って…

犠牲者は1万人を超え、まだ2万人弱の行方がわかっておりません。
数え切れないほどの家が流され、道路は破壊され、町は町としての機能を失い、沿岸部の漁業は津波で壊滅的被害、田畑も海水にやられるなどして被害は甚大、これらを含めた経済的な損失は当初12.8兆円と目算されており、その復興には16~25兆円ほどがかかると、(そして消費税を上げる必要があるのではないかと)噂されております。


ついこの間中国に抜かれたGDPを考えてみても、この13兆円ぐらいは丸々マイナスとなり、さらにしばらくの間経済活動のできない現地被災者のぶんは来期、マイナスになります。
生まれたばかりの我が子を流され、婚約したばかりのフィアンセを失っても、経済学的には「ゼロ」もしくは最悪の場合「マイナス」とされてしまうのです。

そしてさらに震災後の自粛ムードによって日本中の生産活動が落ち、給料が下がり、消費が落ちて震災不況に陥ることを懸念して震災翌日から声高に「自粛を自粛!」「俺らは義援金送ったし」などというまあ何となくそれっぽい意見が経済学的見地から繰り出されていたのは確かですが、自分の中で「わかるけど今?」というどんな学問にも基づかない怒りのような感情が湧いてきたのですが、この正体はやっぱり「人の心に寄り添う心」=「同情心」だったと思います。


全てのフィールド上で経済学と人の心が敵対するわけではありません。
しかし経済学という学問には、人の心は組み込まれてはおりません
(最近になって出てきた行動経済学なり神経経済学などには、「人がこうしたらこうする」のような心理学的要素が入ってきたのは確かですが、基本的には経済学においてもっとも重視される「己の利益の追求」のためのもの)

人の心とぶつかるポイントは、この「己の利益の追求」のために人は動く、そしてそれこそが経済学上で唯一認められる「合理的人間」になるということではないでしょうか。


しかし我々は、四六時中自分の利益のみを追求して生きるわけではありません。
後に述べようと思いますが、外国人が感嘆したと言う「火事場泥棒が少ない」とか、「地下鉄のホームに整然と並ぶ」などといった姿勢は、まさにこの己の利益の追求と相反するところになるでしょう。
自民族だからいうわけではありませんが、この点においては本当に誇り高い民族だと思います。



さて、数々のポイントでこの2つはぶつかってくるのは認めるとして、どうしたらいいのかというのは結構永遠の課題のようにも思えてくるので、書きながらゆっくり考えたいと思います。

転向~序

今回の地震について思うことをしゃべる前に、改めてお見舞い申し上げます。
確かに被害も大きく、また津波に関する映像など、深く心に刻まれることも多かったです。

連日連夜、地震と津波のニュース、そして原発の事故、それによる新たな悲劇、人々の行動自粛…
様々な出来事について、様々な立場の人が色んなことを言ってました。
実際3/11から今まで、Twitterなどを通じて人の立場とそれに伴う見解を追ってはきましたけれども、やっぱりどれもピンとこない。それは被災地からの声ではなく、全く無関係とは言わないまでもどうも真剣味とか切羽詰まった感じがない、いってみれば他人事のような記事も多かったのです。

その、よく言えば冷静で客観的な意見は、今までたびたびある種の緊急性なり親身さに欠ける内容ではありましたけれども、やはり冷静極まる意見として、半ば変な説得力を持った必要悪のようにみられがちでした。



ただ今回、物事についてちょっとはまともに考えられるようになってから初めてとも言える大きな災害に直面するにあたり、先ほど言ったような必要悪の大部分を、自分が学んできた経済学やそれにまつわる個人主義的思想が占めているような気がして、そのジレンマをずっと感じておりました。

こんなときに経済学って必要なのかと。


地震発生から今に至るまで、取り上げられたトピックスはざっと分けただけでも20ほどあります。
そのうちのいくつかは、結構な意見の対立があり、次に同じようなことが起こってしまった際に余計ないい争いで貴重な時間を使わないようにしておくのも必要かと思い、いろいろ改めて考えてみようかと思います。

2011年3月28日月曜日

走光

3月27日未明、歴史が変わった。

ヴィクトワールピサがドバイワールドカップで優勝した。
優勝賞金は4億8000万円以上で、アラブの王様のポケットマネーだそうです。
不況とは縁のない、石油王国。


それはともかく、16で18頭の馬が挑戦し続け、そのたびに跳ね返され続けた歴史。
懐かしい・・・

第1回:ライブリマウントが記念すべき初出走。6着に終わる。
第2回:ホクトベガが悪夢の事故。競争中止で安楽死処分。
第6回:トゥザヴィクトリーが2着に入り、世界との距離を詰めたに見え、
怪物クロフネで世界制覇!の矢先に故障で引退・・・
カネヒキリやらヴァーミリアンでも結局歯が立たず・・・
ドバイで前哨戦を制したレッドディザイアが期待半分で挑戦も惨敗、

で、今年。



レース後の実況、デムーロ騎手のコメントにも注目して欲しい。

暗いことばっかりじゃない。


2011年3月9日水曜日

城南宮

説明不要!!


以下、名物しだれ梅の美しさと、天気の悪さの絶妙なミスマッチをお楽しみください。

なんせ、寒かった・・・






あ、この季節は椿展もやってるみたいです。

梅自体は3月末まで見られる模様。

源氏物語のステージともなっていたようで、歌にまつわる催しも行われます。

京都市営地下鉄竹田駅とちょっとめんどくさいところにありますが、静かでいいとこでしたわ。

2011年3月7日月曜日

センセーションに餓えている

なんだかんだと先走った記事を書いてたので訂正をしときました。
もらったコメントがいつまでたってもブログに反映されません。ゴメン、Googleに文句ゆうとくんで。

今回の件は彼がカンニング見つかって逮捕され、京都大学がおもっくそ株下げて幕を下ろした模様ですね。
あんなことで逮捕せんでよかったのに。カンニングなんておそらく毎年のように行われてるやろうし、それに敏感に反応して被害届まで出さないかんかったのは、頭の白いお偉いさん方が『ヤフー知恵袋???』ってなって、「すいません、手におえません」ってなったからであって、スネ夫に生活水準の差を見せつけられてドラえもんに泣き付く、かののび太くんの様子がオーバーラップするのである。
ただし、のび太くんの場合は同じ水準にたどり着こうとするか、全く違うアプローチでスネ夫と比肩しようとするぶん、京都大学の負け犬っぷりは見事であった。一部専門家からは、京都大学は昔は絶対警察なんぞ学内に入れなかったのに、と嘆く声も上がっている。


カンニングした本人はこの一件で、これから一生、「前科が…あります。罪状は…カンニングです。」という十字架(と呼んでいいのかもわからん)を背負うことになるわけだが、いったいそこまでする必要あったんだろうか。あるなら、それで守りたかったのはなんだろう。ちなみに大学で行われる試験でカンニングが発覚した場合は、その期の単位は0で片付けるのでは…?



もうひとつ、年間5万円の寄付を在日韓国人から受けてたからって、この大変な時に即刻外相をやめ、泥舟から逃げ出すような真似を晒すことが、果たしてこの国と彼の利益を守ることになるんだろうか。
またまた、批判する人は年間1000件の寄付の中身を把握しきれるほど凄い人なんでしょうか。
ひとつのミスも許されない、とんでもない世界のようです。そして日本人は全能の神様の集まりのようです。

2011年3月3日木曜日

CHEATING vol.3

あっさりカンニング魔が見つかったらしい。
仙台市に親のいる専門学校生。
ネット世代は恐ろしい、そんな風にiPhone使ってまうねんもんな。おっちゃんが学生の頃は…

と言いたい反面、事前に仙台市の心療内科について聞いてみたり、何度もシュミレーション重ねたわりには情けない結果になってしまいそうだ。個人的には一色氏のように、国家機密に対する挑戦というか反逆というか、スケールのでかい愉快犯の可能性も疑ってたためになんか拍子抜けした。


何より、ヤフー知恵袋に投稿されたその質問に対するベストアンサー(いくつもの返答の中から選ばれた、最も参考になったとされたもの)が、答えを間違ってたという噂はマジか。
さらに英文の日本語訳が、Google翻訳のコピペ(文法崩壊)で返答されてたってのはマジか。


見せしめのため業務妨害で摘発しといて、大学どころか卒業式目前で専門学校卒業の資格を剥奪しとくぐらいで手打っといたらいいんじゃないかってぐらい、間の抜けたお話でした。

2011年3月2日水曜日

CHEATING vol.2

さて、同じ受験生に今回のことについて街角インタビューすると、「ふざけんな」と返ってくるのは理解できるんですが、メディアを通じて知った僕らにふつふつと沸き上がる、これが「正義感」というものなんでしょうね。
「他の人は真面目にやってるのに!」これがフェアプレー精神。
全く関係ないはずの僕らまでなんかいやーな気持ちになるのは何でなんやろう


フェアプレーを語る上で引っ張り出してきたのは『道徳感情論』(アダムスミス)。
スミスによれば、

「財産への道」(この場合試験に合格すること)は、「徳への道」(この場合はカンニングしたくなる気持ちをぐっとこらえること)と矛盾することがある。富と地位の志願者たちは、「財産への道」を歩むなかで道徳的腐敗を起こさなければより大きな富やより高い地位を獲得できない状況になることがある。この時多くの人が「徳への道」を踏み外す。実際、富と地位の志願者たちはしばしば、虚偽、陰謀、結託、贈賄、暗殺などを企て、彼らの出世の邪魔になる者を排除しようとする。


スミスが容認したのは「徳への道」を同時に歩む「財産への道」の追求だけである。
私たちは、より大きな富やより高い地位を目指して活動するとき、同様の野心を持つ他人と競争しなければならない。スミスは競争を否定しない。


しかしながらスミスは、競争はフェアプレーのルールに則ってなされなければならないと考える。
富と名誉と出世を目指す競争において、彼は全ての競争者を追い抜くための努力をして力走していいが、他者を押しのけるか投げ倒すかするのならば、観察者たちの寛容は完全に終了する。それはフェアプレーの侵犯であって、観察者たちが許しえないことなのである。(2部2編2章を微妙に改訂)



今僕らが立ってるのは上記『観察者』で、フェアプレー精神が心臓をノックしてる状況なわけだが、架線部にかんしては全く別のゲーム理論の話になるからややこしい。

つまりゲーム理論を用いると、合格ラインすれすれの彼らにとって(受験生の総数で割る確率を無視すると)完全なゼロサムゲームであって、そのなかで出し抜いたり出し抜かれたり、ということは想定内どころかゲームの条件の一つとして組み込まれてる

ゲーム理論にとっての道徳感情論とは、絶対不可侵の聖書などではなく、各々のプレイヤーの心の因るただの宗教論であって、利己心を完全に抑え込んで(ハトとして)「財産への道」を目指すことは限りなく不可能に近い。

ゲームをプレイする中で、プレイヤーはその利益を偽計によって出し抜かれ、損害を(間接的に)被ることを半ばヒステリックに恐れ、糾弾するが、その行為もまた彼らが彼らなりの「財産への道」をめざすことに他ならないのである。



言うまでもなく僕自身カンニングを容認するものではないが、いずれにせよこれを無視して目の前の問題に集中するのが合格への近道であるのはまちがいない。
カンニングを撲滅さえできれば試験に落ちてもいいという学生も、上記に基づけばおらんはずやし。

CHEATING vol.1

3月に突入して、受験生には忙しい季節になった。
合格した人も、そうでない人も。

京都大学をはじめとする難関大学で、ヤフー質問箱を使ったカンニングが発覚して、受け入れる大学側もいつもにまして忙しいシーズンになってるようだ。


今回の事件では、尖閣ビデオ流出のときみたいにIPアドレス特定すればカンニングした人間はすぐわかるみたいやし、なんなら容疑者?らしき高校生も挙がってはいるようだが、「何罪?」ってのが難しいらしく容疑者とは今のところ呼べない。
有力なのが「偽計業務妨害罪」で、こざかしい真似して大学の業務を妨げた、という見解が適用されるよう。
調べてみると、2ちゃんねるなんかの掲示板に殺人予告書き込んだり(威力業務妨害)、なにかしら工事に対する反対運動のため工事現場に座り込んだり、卒業式で君が代斉唱の際の不起立を呼び掛けたり、なんていうのと同じような罪にあたるようだ。
(Wikipediaより)


大学の方はおちょくられたから怒り心頭だが、同時にそれは色んな隙間があったことを意味する
今回のような「危険犯」は、事件の起こる可能性を調査して適用するわけだがサイバー犯罪の場合は可能性に事前に気づく能力が圧倒的に低いため、一回目は隙間を見つけられてやったもん勝ちになる可能性が高いんじゃないか。
尖閣んときもやけにバタバタしてたからなぁ。



まあ何より、試験直前に京大に受かりそうにないと判断した学生にとって、過去問解けるようになるより首尾のよいカンニングを成功させる術を考え出す方が、よっぽど簡単っていう事実。
こればっかりはどうしようもないから問題の質を変えんとなあ。

2011年2月22日火曜日

グランプリ再考

宝塚記念の優勝馬にアメリカのBCクラシックの優先出走権が与えられることが、JRAによって発表された。
権利に加えてアメリカまでの輸送費が援助されるので、これまでお金がネックになってた事情が大幅に緩和されたことになる。

JRAがどんなうまいこと交渉したとかじゃなくて、裏には去年の宝塚記念優勝したナカヤマフェスタがフランスの凱旋門賞で好走したことが間違いなく影響してるはず。近年競馬先進国に追い付きつつある日本の馬が、ドバイやら欧州に次々出ていく事実を見過ごせなくなったんやろうな。

有力馬が出走回避したりすることも多く、形骸化しつつある日本競馬界のグランプリ事情にも、一石を投じることになるでしょうが、何より認められていくのは嬉しいね。



ちなみにBCクラシックはだいぶ由緒のあるアメリカの最高峰レースですが、それにまつわる映画にこんなものがあります。


『夢駆ける馬ドリーマー』
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=5303

史上初、牝馬でBCクラシックを勝ったソーニャドールの話。
競馬に興味がない方でも、きっと感動してもらえると思いますよ。

2011年2月19日土曜日

電子書籍と家

アメリカ第二位の本屋さん、Bordersが倒産した。
あんまりでかいニュースになってなかった気がするけど、流されると困る会社がいっぱいあるしね。
個人的に、ちょうどその前日に「本屋ってなくなっていくよなぁ」って話をしてたので、そのタイムリーさに驚いた。



倒産の原因はもちろん電子書籍の爆発的な普及で、ハードの方が先に広まってたアメリカで、さっそくその影響が現れたわけだ。
単純に考えて、日本の本屋が無事で済むわけがない。タワレコなんかと置かれている立場が変わらないことは誰が見てもわかるし、タワレコの記憶が薄れていないぶんレイト・アドプターの動くスピードは速いんじゃないかと思う。感覚的に。
必然、日本の本屋に残された時間はすくない。


最近秋葉原なんかで、『自炊の森』ってのが出てきてるらしい。
既存の紙の書籍をスキャンして電子書籍のデータに換えてくれる漫喫のようなところのようだ。
お値段はだいたい紙の重さ1キロ1000円とかそれぐらい。もちろん本買うのに比べたらだいぶ割安で、こんなんよく出版社が黙ってんなぁと思ったらやっぱ黙ってなかった…
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110214/trd11021410030001-n1.htm(MSNニュース)

音楽のダウンロードの時も思ったけど、またかって感じやな…
悔しいのは理解できるけど、電子化を望まれてるような(もうちょい安くて当然の)本は電子化していいし、何より早くて便利。まあ目は痛いし達成感は少ないけど。それが嫌ならその時はアマゾンで書籍探すよ。


個人的には雑誌をもっと細かい分野にわけて出しゃいいのに、と思うんやけどなぁ。
買う人は買う、といえばそこが一番望める。多少お金出してでも、好きなものは買うやろう。
もうひとつ、「置いときたいけどお金払ってまではいらんな~」ってものは電子化されて無形化していく、という確信に似た予想をすれば、家のなかに形として置いとくもんって好きなものに絞られてくるわけです。そうすると雑誌なんてのは最後まで(半ばアナログ時代の名残のように)あってもいいと思う。


そういった意味で、kajiのつぶやきにもあったけど、これからの家の作り方には興味があります。
最後かどうかはわからんけど、結構な砦やと思うな。そこは。

2011年2月17日木曜日

ハービンジャー

本家イギリスから、社台ファームに種牡馬として、ハービンジャーが輸入された。
ハービンジャーは去年のキングジョージで、史上最大着差(2着に11馬身差!!)をつけて優勝、その後つけられた国際レーティングが史上最高(142)の名馬ですが、なんせこのレースのあと骨折して引退してしまったがためにこのレーティングが正しいかどうかわからないまんまの馬。

ただ、想定購入額が数億円なので、だいぶ割安で買い取られた模様
かつてのダンシングブレーヴのような爆発力を期待したいところですが、ダンチヒ系が生き残れるかどうか…

種付け界を席巻しているサンデーサイレンス系につけれるのは好材料ですが、母父として活躍するようなので4年後か…


しかしロックオブジブラルタルといいハービンジャーといい、期待の外国産馬が目白押しですね。
凱旋門取れる日は近いのだろうか…



ちなみに同日、ヴァーミリアンも種牡馬入りしました。
早世したエルコンドルの後継として期待がかかります。
初年度種付け料金はなんと破格の50万円!!

今のうちに子孫を増やしときたいものですが、すでに100頭あまりの予約があるそうで、一安心ですね~。
エルコンドルの孫で凱旋門ってのもええなあ。

2011年2月13日日曜日

革命に寄せる

ポーランドの社会学者、ジークムント・バウマンはその著者『リキッド・モダニティ』の中で、現在の社会を「社会を構成するコミュニティが崩壊し共通認識に基づいたまとまりや秩序が失われ、社会が機能低下を起こしている」として、『液状化社会』と表現した。

少なくとも日本じゃ、どっちに進んでも誰かに責められるような、そう言われてみればその意見も正しいような、そんな気がしてどこにも行けなくなった気がしている。
じっとしてれば成熟したこの社会で既存権益にはあやかれるし、メニューコストを割いてまで進めるような、誰が見ても文句のない道なんて残されてない気もしている。


エジプトの今回の革命では、Twitterやらフェイスブックといったネット上のツールが大活躍したようだ。
彼らは同じ志を持って、時には暴力にも訴えながら「独裁は許さない」という、(誤解を恐れずに言えば)絶対的に正しいかどうかわからない主張を一途に叫び続けて、その熱意が国内外に影響を与えたわけです。
片や日本じゃ強力なリーダーがいないことを嘆いてたり、もっと言うと過去には当時世界一優秀といわれ日本も真似したワイマール憲法をもったドイツから、ヒトラーが生まれたというトラウマも世界は抱えてるわけです。


それでもやっぱり自分の立場を声高に主張し続ける勇気。
ただただ羨ましいなと思います。
あってるか間違ってるかはともかく、どこかの立場に立ち続けることの偉大さ。
そんなことを考えさせられた、歴史的な日だったように思います。

1泊2日で三重を食せ!!最終章

前日は遅くまで酒を飲んでた関係で2日目は昼から始動。
まずは3年前にいただいて以来、全く返せていなかった御守りを返すべく伊勢神宮へ。


伊勢神宮へは3年前に初めて行ったのですが、その時おみくじのないことに気付いて何でやろうと思ってたら、「伊勢神宮にお詣りした日は吉日に決まってるからです」との立て札が。
どうですかこの自信。
あと、知ってる方もおられるでしょうが伊勢神宮には内宮と外宮があって、正しいお詣りは外→内だそうです。
僕は内宮しか行ってません。


さて、神宮に着いたはいいものの、折しものパワースポットブームかなんかで何でもない日やのに人の多いこと多いこと。
駐車場入るのですら相当苦労しました。



中に入ると林のなかなんでだいぶひんやりします。
僕はパワースポット信者ではないですが森林浴はできます。



御守りも返したことなんで横のお陰横丁で昼飯を。
やっぱ伊勢うどんやろうということで。



伊勢うどんは、太くて柔らかいんで、「うどんはコシ!!」派の僕にはちょっと合わないですが、お陰横丁にはうどんの名店が並んでおります。店内には有名人のサインも。
お陰横丁で有名なんは赤福本店ですね。今はもう普通に営業再開してました。



この時点で3時ぐらいでしたが、この旅の2番目の目的は「伊賀流忍者博物館」
神宮から1時間かかるのに最終受付4時半。


まあ最後の客やったんで、堪能する間もなく…
観光地は閉まるの早い…
時間が早ければ、手裏剣とか投げれるみたいです。
次はリベンジしてみたいですね。



総括すると、「美し国」と銘打ってあるぐらいでさすがに空気綺麗です。
で、素朴かつ新鮮。あと、スピリチュアル。
辛いときとかに行くと、良さそうです。
京阪神からやと、3時間ちょっとで行けるし、旅行先としては大満足の2日間でした。

2011年2月9日水曜日

1泊2日で三重を食せ!!パート2

志摩半島は、山地が沈んだような形状をしているので景観も凄くきれいです。
話が前後しますが、オイスターロードの途中見える景色はこんな感じ。


向こうにうっすら見える山は愛知県の知多半島だと思われます。

オイスターロード自体は志摩半島の山の上を通っているため、ずっと海沿いを走ります。


その途中にある、海の博物館
入ってはないですが、いろんな人のブログを見る限りでは評判がいいようです。


で、晩飯を食いに伊勢市まで移動。
その途中にあった、鳥羽展望台に到着。
演歌歌手の鳥羽一郎と山川豊が兄弟で、鳥羽市出身と言うことで、このような記念碑が建てられている。


ちなみにここにある展望台からは、景色のいい日は富士山が見えるそうです。
天気自体は問題なかったんですが、もやがひどかったため見えず…
望遠鏡も役には立ちませんでした。

こっから海に下りたとこに、海女さんの神様を祀った神社があったので立ち寄ると、なぜか林銑十郎のお墓が。


思わぬところに思わぬものがあるのが三重県の魅力なのかもしれない。

1泊2日で三重を食せ!!パート1

三重県ってのは伊勢神宮とか戦国時代村とか、有名スポットは数多くあるのは知ってるけど、どうも教育的やったりスピリチュアルな感じがどうも足を遠ざけてたんですが、やっと牡蠣のうまさがわかる歳になってきたんで行ってきました、食べ放題。

友人の仕事のお客さん情報で、どうやら三重には「オイスターロード」っていう牡蠣の食べ放題の店ばっかりの道があって、だいたい2000円ぐらいで食べさせてくれるらしいよ、ということで今回は「共栄物産」さんにお邪魔。(2500円/人)

1時から予約してたんで、朝の9時に出れば余裕やろうと思ってたら大誤算。
志摩半島の先っちょなんで、着いたのがギリギリ。


消えそうな字で、かき横丁。



あーあった、ここやな。
しかしまさかの・・・



絶望感を抑えて再検索。
「与吉屋」に改装されてました。行かれる際にはご注意を・・・



目、開いてませんが風がきつかったからです・・・
すぐ向こう海です・・・
こんな日に外で食わされた日にゃあ・・・と思っていたら、さすが!!
建物の中でした。

テーブルに通され、最初の牡蠣が振舞われる。



大量の牡蠣(焼いた状態)。
左は牡蠣汁と、牡蠣ご飯の上に牡蠣フライがのってるもの。
1回お替りさせてくれます。ちなみに焼き牡蠣はもちろん、お替り自由です。

中で働くおばちゃんたちは元気そのもの。
30分を過ぎて箸の止まった客を「もうおしまいか?本気出せ!!」とばかりに煽ったり、
客の買ったお土産を梱包し終わるや、「お兄さ~ん、お土産できたよ~」と頭の上で振り回したり、すごくアットホームで好きやったわ~。

来た牡蠣はマイナスドライバーみたいなナイフでこじ開けます。
最初は結構楽しいんですが、




最後は結構疲れてきます。
「1時間?!みじけ~!!」って言ってたのを後悔しました。

最後はこうですね。


ちなみに素手でこじ開けると殻やなんやで結構指切れたりするんで軍手とかあると便利です。
あと、ここだけかはわかりませんがお茶とかは出ないんで用意していくか、最悪自販機やなんやで打ってます。

まあなんせ、一つだけいえるのは「新鮮!!」

ただ、

もうしばらく牡蠣いい!!




だそうですよ。

2011年2月6日日曜日

力士も人間宣言

「八百長」と言う言葉は、相撲が起源だと言われるほど昔から八百長の疑惑が耐えない。
『ヤバい経済学』の著者、スティーヴン・レヴィットはその著書の中でこのように説明した上で、今回の八百長発覚について、当然のことで、別に驚かないとコメントしている。


考えてみれば当然のことなんやけど、八百長は身内の不正やから法的な罰則がないんだそうな。(外部の賭けの対象になっている場合は賭博罪やら詐欺罪にひっかかる)

相撲協会の「公認相撲規則」の中で「故意による無気力相撲罰則規定」てのがあって、協会としては「敢闘意欲に欠ける相撲」と無気力相撲は別としてるけど、放駒理事長が過去に八百長はないって言ってしまった罪滅ぼしにこの二つをイコールとしてしまったがために、余計話がややこしくなった。

つまり、「相撲は興行ですか?スポーツですか?」というもの。

もう言ってしまっていいんではなかろうか。相撲は見世物ですと。
言わずもがな、相撲はスポーツではないし、本気の本気で巨漢の力士同士が年90回もぶつかったら無事ではすまんやろう。あくまでもあれは神様を祭る神事であって、スポーツじゃない。

けど外国からはくいっぱぐれのないプロレスと勘違いしてやってくる力士が番付の上位を占め、神事のなんたるかを理解しないまま力任せに日本人力士をぶん投げて(たまにはぶん投げられて)、その日本人力士を見て「情けない、けど次は」とさせてくれるような楽しみをしているファンもいれば、一昔前のイケメン外国人に夢中になるファンもいれば、もういったい相撲ってものが何の目的で開かれてたか、そんなことはみんな無視して楽しんでるし。


どうせ誰もそんなこと理解しないし、したところで少数派。
外国人力士は年々増えていき、教育が難しくなる。
街に出て喧嘩、暴行、賭博、八百長。

これらを全部覆すのはもう不可能でしょう。
頼みの綱の理事長は「過去になかった」って嘘ついてもたしなー。

2011年2月2日水曜日

説明責任とはなんぞや

人類学者エドワード・ホールによれば、日本の文化というのはハイ・コンテキスト・カルチャーというのだそうだ。
その文化においては多くの文化的コードが暗黙裡に共有されており、まあ簡単に言えばあんまり物言わなくても伝わっちゃうことが多く、そこにはある種の趣きなんてのも加わる。

「和を重んじる日本文化は、個人の能力を競いながら目的を遂行することとは反対で、集団で強調して目的を遂行する。
又、武士道精神や儒教思想に基づきあれこれ言い訳しないことに慣れ、アカウンタビリティ(説明責任)の意識は薄れている」のだそうで、さらに第二次世界大戦のときのややこしい話が加わる。


結果的に真珠湾攻撃が『奇襲』になったのは、当時の在米日本大使館の情報認識の甘さと職務怠慢だったことを戦後すぐの1946年に外務省がまとめていたことが、1994年に発覚しちゃった。
情報認識の甘かった関係者各位は処分されず、アメリカには「sneaky jap」(薄汚いジャップ)と認知され、果ては原爆投下される。
ここでも政府は、説明に必要な三原則、『オープン、フェア、スピーディ』を欠いていたことになる。


要約すれば、武士道精神のハイコンテキストカルチャーが敗戦によって世界基準の説明責任を求められたときに、口下手な外務省によって話がややこしくなった。
現在日本が抱えている問題を政府任せにしていることに国民が危機意識を持ち始め、己の抱えている情報をオープンにしなさいと国民がうるさく言っているような気がするのだ。




ちょっと前から主流の情報開示っていうのと、説明責任は、やっぱり切っても切れないと思うし、最近街の人にインタビューするとみんな口合わせたみたいに『説明責任!!』って言うじゃないですか。すごい違和感感じる。説明責任って何のことで、なんで必要なのか。


武士道時代は許されなかった失敗(当時は切腹)が説明責任を果たすことで許されて、逃げ道として使われてることもある。それにも反対してるでしょ。じゃあいったいなんなんやろう。




情報開示社会では、昔はお上の専売特許やった情報掌握がもちろんないから、『みんなで協力して世の中のこと考えてみようゼ』的な発想になって、その代表にはその方針について当然説明を求める。悪いことしたらもちろん説明求める。それって今まで情報的弱者であった一般国民が、(なぜか)いつの間にか勝ち取っていた権利を維持して行使しうる手段になったんじゃねえかなあと思います。

一緒に生きるんやから、説明する。
なぜか子供のとき、母親に帰宅時間を約束させられたように。
それができなければ、コミュニティを追放する。

『説明責任』は、コミュニティとして生きていく日本人が行っている、信頼関係構築の作業なんでしょうね。
それができない政治家は、鳩山さんとか小沢さんのように、追放されていくわけです。
検察審査会は、おばあちゃんみたいなもんやな。

違うか。

(参考文献:『説明責任とは何か』井之上 喬)
アカウンタビリティ(説明責任)by Wikipedia

2011年1月30日日曜日

気持わるさ

2010年は情報管理の在り方について再考された年でもあった。

1)尖閣諸島問題における動画流出事件
2)ウィキリークスによる国家機密漏洩
3)大桃美代子氏による元夫の不倫暴露

「秘密を守るべきか公開すべきか」という問題についてはもういい加減議論が出尽くしたうえ、結局答えの出ないままコトは終息に向かっている。(ウィキリークスの問題については情報開示とは逆方向の方針を各国とるようだが)
あんだけ考える機会があって、せっかくやのにもったいないなあって思ったりもしたが、「永遠に答えが出ないもの」として片づけられたのであれば、それもそうかと思う。

それについての価値観が人それぞれやからっていうよりは、「秘密を守る人」と「秘密を暴く人」がそれぞれその仕事で飯を食ってるからであって、3番目の不倫問題なんかは不倫やったから扱いが難しいものの、日垣というジャーナリストが己のジャーナリスト精神にのっとって大桃氏にリークしたものであるのかもしれないし、麻木を降ろすことで飯が食える人がいる。

ウィキリークスは正義感を売って生活し、彼の正義感と戦わないと飯が食えなくなる人がいる。
当たり前のようやけど、もうどこを潰しても誰かが生活できなくなるほど、世の中には仕事が溢れてるし、いろんなこと考える人がおるなというのが情報開示に接したときに思った感想です。


世界平和を願ってしてるはずの外交で、その機密文書には相手の国をぼろっカスに書いてあったり、大事なことを隠して政権維持してる政党があったり、知性派気取って他人の夫と不倫したりというのが許せない人と、それをばらされると生活ができない人。この2つが仕事の奪い合いをしているのに等しいと思うのです。


しいて善悪をつけるとすれば、隠している側にウソがあるかどうかだと思います。
隠している側が秘密について突っ込まれた時、「秘密はない」とウソをつけば悪。そうでなければ妥当。その意味じゃ尖閣問題が一番罪が重いと思いますが。