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トータルライフコンサルタント 相続診断士

2011年3月2日水曜日

CHEATING vol.2

さて、同じ受験生に今回のことについて街角インタビューすると、「ふざけんな」と返ってくるのは理解できるんですが、メディアを通じて知った僕らにふつふつと沸き上がる、これが「正義感」というものなんでしょうね。
「他の人は真面目にやってるのに!」これがフェアプレー精神。
全く関係ないはずの僕らまでなんかいやーな気持ちになるのは何でなんやろう


フェアプレーを語る上で引っ張り出してきたのは『道徳感情論』(アダムスミス)。
スミスによれば、

「財産への道」(この場合試験に合格すること)は、「徳への道」(この場合はカンニングしたくなる気持ちをぐっとこらえること)と矛盾することがある。富と地位の志願者たちは、「財産への道」を歩むなかで道徳的腐敗を起こさなければより大きな富やより高い地位を獲得できない状況になることがある。この時多くの人が「徳への道」を踏み外す。実際、富と地位の志願者たちはしばしば、虚偽、陰謀、結託、贈賄、暗殺などを企て、彼らの出世の邪魔になる者を排除しようとする。


スミスが容認したのは「徳への道」を同時に歩む「財産への道」の追求だけである。
私たちは、より大きな富やより高い地位を目指して活動するとき、同様の野心を持つ他人と競争しなければならない。スミスは競争を否定しない。


しかしながらスミスは、競争はフェアプレーのルールに則ってなされなければならないと考える。
富と名誉と出世を目指す競争において、彼は全ての競争者を追い抜くための努力をして力走していいが、他者を押しのけるか投げ倒すかするのならば、観察者たちの寛容は完全に終了する。それはフェアプレーの侵犯であって、観察者たちが許しえないことなのである。(2部2編2章を微妙に改訂)



今僕らが立ってるのは上記『観察者』で、フェアプレー精神が心臓をノックしてる状況なわけだが、架線部にかんしては全く別のゲーム理論の話になるからややこしい。

つまりゲーム理論を用いると、合格ラインすれすれの彼らにとって(受験生の総数で割る確率を無視すると)完全なゼロサムゲームであって、そのなかで出し抜いたり出し抜かれたり、ということは想定内どころかゲームの条件の一つとして組み込まれてる

ゲーム理論にとっての道徳感情論とは、絶対不可侵の聖書などではなく、各々のプレイヤーの心の因るただの宗教論であって、利己心を完全に抑え込んで(ハトとして)「財産への道」を目指すことは限りなく不可能に近い。

ゲームをプレイする中で、プレイヤーはその利益を偽計によって出し抜かれ、損害を(間接的に)被ることを半ばヒステリックに恐れ、糾弾するが、その行為もまた彼らが彼らなりの「財産への道」をめざすことに他ならないのである。



言うまでもなく僕自身カンニングを容認するものではないが、いずれにせよこれを無視して目の前の問題に集中するのが合格への近道であるのはまちがいない。
カンニングを撲滅さえできれば試験に落ちてもいいという学生も、上記に基づけばおらんはずやし。

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