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トータルライフコンサルタント 相続診断士

2010年6月30日水曜日

レンピッカ展

兵庫県立美術館で開催中の、レンピッカ展を見に行った。



1920年代の派手なポーランド社会で派手な生活をしてたレンピッカが世界大戦を経て忘れられていき、それに対抗してもがきながら堕ちていくさまがよくわかるように展示してあった。

絵を見れば描いた人の気持ちがわかる、って言いますね。
そんな感じです。
レンピッカ自身は感性と才能の人であったようなので、なおさらです。


緑の服を着た女性(あれは実は彼女の娘だそうですが)が颯爽と歩いている絵が有名ですが、むしろ戦時中の堕ちていく途中の絵を見てもらいたいですね。

2010年6月24日木曜日

ああそのために法律があるのか

広島県のマツダの工場で11人もの人を跳ねたとして逮捕された男が、秋葉原のあの事件の犯人と境遇がよく似ているとして話題に上っている。

秋葉原は派遣社員、広島は期間工。
この共通点が、労働形態の間違いを指摘するなどといった極端な話にならないことを願う。
似通った労働条件で働いていたからシステムが悪というのなら義務教育もそうだし、言ってしまえば両親が(存命中だろうとなかろうと)いるという点も一緒ではないか。

大量のワーキングプアを生み出したとされるこの問題が、一定の影響を与えたことは見ればわかる。わかるんやけども…いったい誰が義務教育と労働システムとの線を引くのかという問題は残る。


昔コンビニでアルバイトをしてたときに、そこの店で買った物を学生が近くのマンションの前で食い散らかし、片付けずに帰ったことで、なぜか店に苦情が来た。後で湧きあがってきた怒りを分析してみたところ、
「その理論だと作った人間が一番悪い」というものでした。つまり責任の所在を明らかにする線引を、近所のおばちゃんによって勝手になされたという怒り。


だからといって「結局本人の自己責任」というのはいささか思考停止な気もするし、自己責任のない人にある日思い立たれて無差別殺人に巻き込まれたくない人は、銃を持っていいということになる。

思いのほか難しいな、これは。

情報処理業という黒船

全世界を興奮と期待の渦に巻き込んだKindleやiPadの普及で電子書籍が簡単に読めるようになるということで、各部門に新しい変化が生まれるという予想(懸念)が起きている。


かつて電子書籍の発生を予測した時(その時はすでに開発中)、液晶画面は目が疲れるから、予想以上には広まらないという指摘を受けたことがある。この点は画面の広さ、画素の進歩、雑誌等との相対比較によって問題はほぼ解決したと思っているし、まあ何より最新機器で優雅に本を読むという欲求には勝てないのだと思う(かつてパソコンが開発された時の指摘と同じ)から、大丈夫なのだろう。


電子書籍の普及が抱える問題の一つとして、雇用の喪失というものがある。
つまり紙媒体での情報を発信している業界の雇用喪失が予想される。
ひいてはゴミの処理業者、リサイクル業者の仕事が減って、人件費を削減するというものだ。

容易に予想されることだが、ゴミ処理業からこれからしばらく需要が伸びるであろうIT業界への労働資源の移動が簡単ではないというところが頭が痛い問題ではないか。使う能力が大きく違う。



参考までに、家庭や事業から出てくるゴミの内訳について挙げておくと、
家庭ゴミのうち紙などの資源ゴミ(主に新聞や雑誌と想像できるが)の内訳は20パーセント前後、事業ゴミになるとそれプラス5パーセント前後になる。5年前に家庭ゴミが有料化され、燃やせるゴミと燃やせないゴミの量が減ってきているから、この内訳はさらに広がるばかりだ。たぶんエコブームもそれを手伝うことになる。
この仕事を失うのは、大きなダメージだろうと思うのだが、聞く限りでは今のところ雑誌界から反対の意見は聞こえてきても、ここの業界は損失が未知数なのか、あまり発信がない。

その発想がなければ、ますます電子社会による被害を被るばかりだと思うのだが、杞憂なんだろうか。


まあでも自分のことを考えたときに、やっぱり本のレイアウトとかは魅力ではあるし、目に見える資産として考えたときに(不経済ではあるが)満足感は得られるし結構重要な要素を占めている気がするから、そう簡単には無くならないのかもしれない。
ただ電子書籍は出版社を挟む必要がなく、出そうと思えば作家が勝手に発信して、今より多い収入を得ることができ、さらに本(ソフト)の価格は下がるから、それとあれを足してこれと比べた時にどうなるかはわからない。

2010年6月8日火曜日

セカンドライフ再考

どんなコンサルタントの話を見ても、会社の成長を妨げる要因の一つに会議の質と量があげられている。

よく言われているのが、日本人は会議に集まることを第一義に考えており、それが会議の質を貶めた上、徒に時間だけを浪費している、というもの。小学校のときの「終わりの会」を思い出す。


主に日本とは会議の質を異にする海外において、会議の際に「セカンドライフ」が再び活躍しているらしい。数年前に流行ったセカンドライフは、最近では国内外の企業が撤退して空疎化し、その潜在能力のほとんどを発揮できないでいたようだ。


セカンドライフ成長時代を支えたのは、主にmixi世代や2ちゃんねるユーザーで、ウェブページのような2次元のソフトとして使用していた向きが強い。
今セカンドライフが再び注目されだしたのは、twitter世代の後押しがあるのではないかと思う。つまりもっと立体的な、ライフログ的な使われ方をしてきていると思うのだ。

立体的な使われ方は、広い派生を生み、爆発的な想像力を生む。
セカンドライフが本当のセカンドライフに今度こそなりうるか、大きな挑戦だと思うのである。