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トータルライフコンサルタント 相続診断士

2011年4月15日金曜日

転向~7・嫌われたいんかな

先にも述べたように、経済学の中では人間は完璧なまでに合理的で、その合理性は各々が各々の利益を追求することによって満たされる。逆に言うと、己の利益を合理的に追求しないような人間は、人間と見なされていない。

『己の利益』には道徳や悲しみ喜び、またそれを理解できる人間の質など、金に置き換えられないものは含まれない。
たとえば、津波で壊れた店から商品を盗む(利益プラス)ことやら、サッカーのチャリティーマッチのチケットをネットで転売して儲けることなど、経済学的見地に立てば、いとも簡単にやってのけることはできる。

さらにもっと言えば、被災し寝泊まりする場所がない少しお金のある人に対して、需要の高まりを背景に宿泊費を釣り上げること(残念ながら事実として起こっている)なども、そんなに経済が大切であれば正解だ。



普段有料の温泉施設を無料で解放したり、3月分のメール料金をタダにしてくれたり、炊き出しに参加していくら人に感謝されようと、彼らにとっては『機会損失』という名の損失でしかない。


ここまで考えて、話には聞いてたけどいかに人の気持ちの汲めない学問か、思い知らされてしまった。
どんな反論が出てきてももういいよ。支持しません。

2011年4月12日火曜日

転向~6・回りまわってFIFA賛美

今日、プロ野球が開幕した。
本来から2週間以上遅らせた開幕で、電力の供給が間に合うまでナイターは自粛するようだ。

開幕延期反対派で読売グループの会長である渡辺恒雄会長は延期が決まった時点で、自粛派に対して「勝手にしろ!」とブチギレていた。
野球が世間を励ますと信じている人と自粛すべきとする人との世論の比率は、3:7ぐらいで、他の論争と比べて圧倒的に自粛派優勢だったと記憶しているが、これは娯楽活動が経済活動に比べて市民権が認められていないということだと理解した。少なくとも今じゃないという自粛期間は、当然長めに設定された。


昔ファイナルファンタジー10の中で、シンという大災害(のようなもの)にある町が破壊され、その直後に開催されたブリッツボールという競技の大会が開かれ、破壊された町のチームも含め全てのチームが出場し、国民はそれに熱狂する、というくだりがある。これが全てとは言えないが、いつどこで同じ目に見舞われるかわからない国民にとって、最大級の責任感と、同情と、そして誇りにも似た災害に負けない強い心が、そこにはあった。


おそらく電力事情がなければ、そして(共感を得るという意味では)震災がより頻繁に起こる状態であれば(起こらないことを望む)、会長の姿勢はもう少し支持されたのかもしれない。さらには、野球開催が支持を得るには圧倒的に、海外で活躍するサッカー選手のメッセージがスマート過ぎて心を打った
またこのゴタゴタによって、新井選手会長にとっては本当に不運なことに、野球界は株を下げた。


いかにFIFAがどす黒い問題を内包していようと、サッカー選手の深い同情の精神とその強烈かつシンプルな発信力は感動に値する。
震災直後の試合で得点したエトーは長友を抱き、ベルギーリーグの降格のかかった最終戦ではチームメートが川島と川島の母国のために戦うと公言し、どの試合でも会場には日本を応援する横断幕、試合前には黙祷…
枚挙にいとまがないこの事例は、人道問題に言及し続けたFIFAの努力の賜物と、そこにプレーする選手の質、発想力によるものだろう。もちろんメジャーリーグでも同じ類いのものはあった。しかしこんなに伝わりかたが違うのか。

野球選手は大きな問題を越えた。
今度は自分の中にずっとくすぶり続けた被災者への思いを、思う存分発揮する番だろう。

2011年4月11日月曜日

転向~5・情報の非対称

今日で地震発生から1ヶ月が経過した。
地域の道路は世界が驚くほどのスピードで復旧し、被災地以外の近郊の観光地には日本人観光客が戻りつつある。

しかし昨日の晩のNHKの番組で福島県の佐藤知事が半ギレで「原発問題は進行中です」と言っていた通り、今や徐々に拡がる被害状況よりも、汚染物質とともに拡がる風評被害の方が、大きな関心ごととなりつつある。


福島というところはご存じの通り農作物の産出量がとても多く、種類も豊富なところである。そんなところに原発があったこと、そしてそのことには何となく目をつぶって食べてきたこと、福島の原発で発電した電力は、福島の人達でなく都心の方に送っていたことなど、なんとなく理不尽というかなんでそんなことになってしまったのかよくわからない。
地域住民は原発に雇用されたりしているので、今さら文句も言えない人がいる、という沖縄の方で聞いたことのある話も聴こえてくる。


風評はイメージに直結するが、それにはいいものも悪いものもあるはずだ。
福島で作った野菜は有名ではあるが、すぐ近くにはすでに事実として原発があって、それでもみんな食べてた。科学的には全く異常なしと立証されていたとしても、レストランではお手洗いのそばの席を避ける心情と似ているかもしれないが、席がそこしかあいてなければ黙って食べて帰ったりする。


さていざ今回のように恐れていたことが現実となり、観測機のメーターが振り切れるほどの放射線物質が検出されて、「風評被害に悩んでます」というときの「風評」って一体なんだろう?

安全性を強調して、今まで放射性物質が飛び回る可能性に蓋をして日本有数の産地になれたのは、明らかに風評操作であるし、観光地としての魅力を風評によって失った当該地区のちょっと外側の旅館が喰らったのは果たして風評被害か?だとしたら被害者は一体誰だ。いやだから風評ってなんなんだ。

2011年4月8日金曜日

転向~4・自粛反対の効果

正直言うと、声高に「自粛に反対!みんなで金回して、経済回すことが、何よりのお見舞い!」という言葉に、一体どれぐらいの正当性があるのかがわかりません。僕が聞いてる限り、ちゃんとした説明がなされないし、よしんばうまいこと論理の筋道が立ったとして、思う通りにいかなかったことを思い出せば、いかにその努力が不毛かがわかろうものです。
どうせみんながみんな理解できるわけではないその話に、「買い占めはやめて!」っていう切実やけど簡単なお願いですら、自分さえよければいい人達は守れない。「みんなで金回そうぜ!」っていう話が、それ以上に理解されることがあるでしょうか。


結局自粛反対派の言ってることというのは、とても真っ当なことを言ってるようで単なる感情論なのではないかという気すらしてくるし、なんなら一時期のエコのような胡散臭い感じが漂ってくるわけです。その怪しい宗教じみた主張に正当さを与えるために、なんとなく理解できそうでできない経済学を持ち出してくるその下衆な感じにイライラしてるんだと思います。
残念ながら経済学は、 経済危機を解決するためにすら派閥の争いを生んだだけで(シュンペーターの株が上がったり)肝心なことに役に立ってませんが、極めて感情的な話に適当な説得力を与えるだけの学問になってる気がするのですね。


あと、残念ながらここで普段よりちょっと多目に消費したところで、お金が回って経済が活性化して被災者に回る、というのは夢物語だと思います。やるなら構造改革であって、政府の役目です。残念ながら今は各党の思惑しか回ってない状態なんでしょうが…



被災地の商品を買って(野菜、地酒)云々、というのは直接的で最もわかりやすい支援だと思います。
ものを通して心を貰う、というこの方法は、反自粛派と反対の道ではないと思います。心の表し方は人それぞれだと思いますから。

2011年4月1日金曜日

転向~3・天罰

石原慎太郎都知事の『天罰発言』は発言直後、メディアによって放送された。
「資本主義とか個人主義って最近行き過ぎ」というニュアンスを端的に示そうとし過ぎて大失敗した感じだが、一旦この発言を受け入れてから「あれ?今のおかしくね?」と思ったことを覚えている。そして、それぐらいテレビでもさらっと流れた。

こんなんよく被災地が許すなあと思っていたのだが、それもそのはず、そもそもテレビなど見れる環境にないし、よしんば見れたとして怒りを発する術も、またその時間とか余裕も、さらに言えば人の気持ちのわからない人に対してそんなことをわざわざ注意してやる義理もなかったのであろう。次の日になってようやく批判されたことが報道された。


それにしても理不尽にも家族や友人を突然失った人に対して「天罰」とは、全くひどいものだった。
もういい加減批判は出尽くしてるし、彼も選挙前にやってもうた感満載で謝罪し、原発がらみで涙流してみるなどイメージ回復に忙しそうだからこのへんにして、言葉の真意をちょっと考えてみる。


行き過ぎた個人主義にこの場を借りて文句入れた、というところで、被災地じゃ人間は一人で生きていけないだろう、自分の利益ばかり追うのはやめなさい、ということだったと思う。


しかしこの発言は、普通に言えばわりかし真っ当なことに聴こえるのに過激な字面を追われて(いやしい仕事発言の余波とかあったのか)被災地の方では彼に言われなくともごく自然に行われているようで、杞憂の上勝手にイメージを下げただけで終わってしまった。
個人主義どうこうと言う問題は以後問題になるかどうかはわからない。
ただ安全の確保についての個人間の連携は話題に上がるだろう。
そのためにTwitterなどのSNS が果たす役割は大きかったわけだが、デマが多かったとかで非効率が多かったようだ。


「未曾有」って言葉の意味を考えれば多少の混乱はもちろんあるだろうが、専門家同士「意見の擦り合わせ」があんまりない印象だった。みんながみんな己のフィールドで投げて打ってするから、球拾いの僕らが大変だった。原発の情報も毎日修正されて、どこまで信用していいかわからない。
デマが流れたことについては、東電の責任は見た目以上に大きいと思っている。

転向~2・喪ってなんぞや

震災後早々の経済活動を自粛するブームに、正当な理由を与えそうな概念は「喪」である。
厳密には故人の親族が祝い事などを一年ほど避ける期間であるが、国によっては大規模な災害やテロなどで大量の死者が出た場合、国ごと服喪期間をもうける場合がある。

日本にはこれが今のところないので、あえて経済活動などを自粛する理由はない。
したがって、ややこしいことに「自粛を自粛」派にとってはその立場を曲げる理由がない。

しかし服喪というのはもともと「自ずから」故人の親族友人、または万単位の死者を出したこの事実に心を寄せ、もって故人をしのぶというものだから、それができない人にあえて強制する性質のものでもない、という事情がありそうだ。これが「一旦自粛派」と「自粛を自粛派」が表だった争いをしない理由のような気がする。


人が死んで悲しくない人はいない。(と思いたい)
あえて明るく振る舞うことで、または普段通りに生活することでしか、悲しみにくれたり気分の沈みがちな自分をコントロールできない人もいるだろう。

しかしながらあえて公の場で(ある程度影響力のある人間が己のSNSアカウントを利用して等)「いい加減自粛すんなよ」というのは大いに違う気がするのである。
彼らは上記のように「人の死より大事なものがあるという(服喪派にとっての)淋しくて殺伐とした社会」で生きていることを大体は許容、というかスルーされていることに気付くべきだと思う。
あえて文句が出ないのは、「自粛を自粛派」には説明しても理解されない内容であるし(結局当事者でもないし)、一から説明してわかってもらう話でもない、ということなのだが、被災地に情報が完全に行き渡るようになってからどうなるか。


もはやとっくに地に落ちた日本の経済事情を惨めにも守り抜こうと、鼻クソみたいなプロ意識を公にあえて披露した彼らがいずれ経験するのは、誰も心の底から自分を偲んでくれない自らのお葬式であろう。

というか、今では心底そう願っています。



誤解のないよう書いとくと、全員一週間喪に服せというつもりはない。
ただこの繊細な問題を前に、わざわざ起こさなくていい論戦を起こすなということなのです。



要は人の心を重視したい人達にとって、GDPがどうとか、自分の給料がどうとか、ピンとこなさすぎる、という話なのではないでしょうか。