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2010年12月27日月曜日

文化不況の一例

2010年のシングル売り上げベスト10が発表され、AKB48と嵐が独占した、というニュースがあった。

よく言われているような、作り手のクオリティが低下しただの、日本人の頭が溶けてそういう稚拙に(少なくともそう見える)音楽しか聴けなくなってきているとか、全部が全部そこに原因を求める風潮があるが、それはどうも怪しい。

長引く不況で30~50代の財布の紐が固くなり、遊興費等が抑えられた結果、音楽は売れなくなった。
かたや20代までの出費はと言うと、アルバイトや小遣いに頼るところがあるから、不況は関係なく、必然他の年代に比べて可処分所得が多く残る。

さらに事を大きくしているのが、日本人の子供は世界一小遣いが多く、さらにマネーリテラシーがすこぶる低いため、何も考えずにどんどん金が出て行く。K-POPなどというジャンルの流入に歯止めがかからないことの説明が、これでつく。要は、日本人はいいカモにされているということだ。現在K-POPはキャズムに陥っている節があるが、本流は来年以降だろう。

以上を踏まえると、クオリティとか耳の善し悪しの問題ではなく、“売れるから作る”という極めて合理的な経済行動がなされているだけで、さらに昔のように音楽に求めるものが変わってきたというのもあるかもしれない。少なくとも今出ている音楽を聴いていると、現在深刻な不況に陥っているとか、暗い未来しか予想できないことは想像できない。そしてこの『明るい今しか想像できない楽曲』が不況のために流行しているという皮肉な現実。この半現実逃避的な曲を聴いて育ち、社会に出てきりっと頭を不況モードに切り替えられるようなできた人間ばかりではない。


売り上げ数=流行と『音楽シーン』を全く分けて考えた方がいいかもしれない。
例えば有線なんかでは、『トイレの神様』なんて曲が上位に来ており(個人的にはテレビ番組等で過剰人気感)、今年の月間ランキングではどの月をみてもせいぜいAKB48の曲が1つランクインしているだけで、全く売れ筋とは別の様相を呈している。僕が音楽制作者は土下座してでも共有ソフトを使わせて貰いに来いというのはこれが理由だ。ファイルをフリーにしといてでも名前の知れたい歌手がいるのだ。

作り手にとっても聴き手にとっても、名を知らないというのは不幸だ。
繰り返すが音楽が売れなくなるからフリーソフトは認めないというのは、新たな消費の機会も、イノベーションへの意欲も失っていることになる。

2010年12月18日土曜日

責任の所在について

人気プロレスラーの武藤敬司氏を含む数人が、興行の最中場外乱闘を起こし二階から落下、下にいた女性客が脚を折り後遺症が残ったとかで、プロレス会社を訴えているらしい。

確かに可愛そうな事故ではあるが、手術を含む通院費は会社が大部分をもったというし、それ以上する必要ある?と思う。

イギリスで昔濡れた猫を乾かそうとして電子レンジに入れたら猫が破裂したとかで、「猫を温めないでください」なる注意書きがなされたというが、プロレス会場に「何が降ってくるかわからないので、注意してください」とか書いとかないといけないのだろうか。

野球場に行けばファウルボウルに対する注意喚起のアナウンスが流れるが、あれも正直いって違和感がある。まあお子さんも多いし、生死に関わるから仕方ないとしても、なおさら言われなくても自分で…ってなるでしょうに。

友人に、ライブ会場で行われる「ダイブ」(ほとんどの会場で禁止)の余波を喰らって肩を脱臼した人がいるが、そんなもんだと諦めていた。

年間に、山で滑落なり遭難で命を落とす人はわりといるが、全ての山の登山口に、「滑落や遭難にご注意ください」と書く必要があるだろうか。

銃社会のアメリカでは、一年のうち銃の暴発で命を落とす子供より、家に備え付けてあるプールで起こる事故で命を落とす子供の数のが多いのだが、全てのプールのへりに、ペイアテンションと書く必要があるだろうか。

日頃の疲れをとろうと居酒屋にいったサラリーマンが、隣の席で延々愚痴をこぼすサラリーマンを見て飯がまずくなったりすることがあるが、「席によっては期待に添えません」と書く必要があるか。


必要のない社会であってほしい。

2010年12月3日金曜日

既に日本にはおるんやけどね

昨日の明け方NASAが重大発表をするというから、宇宙人発見のニュースちゃうかと半分真剣に期待してしまったが、どうやら噂では今までの常識では考えられない生命体がカリフォルニアの古い湖で見つかった、ということらしい。

地球上のあまねく全ての生物は、リンか炭素か水素か窒素か酸素か硫黄でできているのだが、今回見つかったバクテリアはDNAがヒ素でできていた、ということらしい。
つまり今まで生命を規定していた定義がやや変更されましたよ、ということのようで、地球外的にはより広い定義で、『地球外生命体』を規定できるということのようだ。


そんなニュースと別に、楽しみな記事があった。

土星の衛星レアに大気を検出
http://www.astroarts.co.jp/news/2010/12/02rhea/index-j.shtml

NASAの土星探査機カッシーニが土星の衛星レアにひじょうに薄い大気の層を検出した。酸素の密度は地球の5兆分の1ほどと見積もられているが、月や水星の大気の100倍以上になる可能性もあるようだ。

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新生物発見のニュースまで、そう時間がかからんかもしれんなー。

2010 紅葉

秋深し、というかもう12月になってしまいましたが、今年も嵐山まで紅葉を見に行ってきた。
今週末は天気が荒れ模様ということで、おそらく最後のチャンスだったのではなかろうかと思う。

例によってあいにくの曇天…

でしたが、デジカメを『紅葉モード』にして足掻いてみました。






修学旅行生。
嵐山とは渋いねー。




ヒッチコック



展望台があるのですが、そこまでの道はもう紅葉終わりかけということでちょうどいい感じになっていました。




小倉百人一首の歌碑。
探してないけど、おそらく嵐山中に100個この歌碑が立っているのだろう。




寒かったんで河原町まで出ておでんに熱燗を。
幸せやー。
さ、今年も残りがんばろ。

2010年11月17日水曜日

米に八つ当たり

知らず知らず間違った日本語を使っていることがある。

なかなかアイデアが浮かばず仕事が進まないときに「煮詰まる」という言葉をよく使っていたのだが、これは大きな間違いだったそうだ。

「煮詰まる」は「議論が進んで結論が出る状態になること」だそうで、自分と同じような間違った意味で使っている人は30パーセント以上もいたらしい。


恥ずかしーと思いながら米を磨いでいると、ある疑問が浮かんだ。
「無洗米」っておかしくねえか。
せめて「既洗米」じゃなかろうか。

ちなみに、ウィキペディアではこうである。

無洗米は研米されて作られるもので、製法により異なるが最も普及しているBG無洗米は水で洗ってあるわけではない。また同番組内では食品関係での接頭辞「無」の用法に着目し、「無着色=生産者が着色を行っていない」、「無農薬=生産者が農薬を使用していない」であることから、「無洗米」は 「生産者が米を洗っていない」といった意味になるのではないかと指摘している。しかし「無」と同様に否定を表す接頭辞「非」や「不」では「非洗米」「不洗米」と印象があまり良くないことなどから、「洗う必要がない」ことを端的に表す表現の難しさも挙げている。

なおさら「既洗米」じゃねえか。

2010年11月9日火曜日

BCクラシック 2010

競馬においてヨーロッパ最高峰のレースが凱旋門賞なら、アメリカ最高峰がBCクラシックになる。そのレースに日本のエスポワールシチーが出走し、10着に敗れた。



うーん、もうちょっと善戦してくれることを期待してたけど、残念やった。

去年の全盛期に比べたらやっぱり落ちてるのか、競る馬が多くて展開が向かなかったか、はたまた距離が長かったのかわからないが、去年のこの馬の強さを考えるとしばらく期待できそうにない気がする。

このレースでは、アメリカで一つの時代が終わった。
デビューから無傷の19連勝を飾ったゼニヤッタが、ついに連勝記録を止められた。
引退じゃないかな。前も一回引退しようとして撤回してるし。


BCフィリーズメアターフの方にはレッドディザイアが出走して、4着。


海外でも善戦を続けてはいるものの、もう一皮剥けてほしい印象。国内ではライバルのブエナビスタが独り舞台を演じているので、帰ってきてもう一度名勝負を見せてほしい。


ともあれこうして海外の競馬の祭典に、次から次出ていけるのは嬉しいことやな。次は来月の香港か。

香港スプリント→ビービーガルダン
香港マイル→アパパネ
香港ヴァーズ→オウケンブルースリ
香港カップ→ブエナビスタ
で完全制覇を目指しましょうか。 

2010年11月6日土曜日

共有ソフトの可能性を模索せよ

AKB48の新曲がミリオンセラーを達成しようとしていると同時に、CDの特典である握手券なるものや本人写真のみ抜いて、CDの方はネットオークションで大量に売りさばかれていることに一定の憂いの目が注がれているようだ。
もういい加減、この手の批判は時代遅れ、と言われなければならない気がしている。

むしろ、数千円払ってでもしたい握手の方に敬意を払うべきかとも思う。

中国漁船衝突の映像が流出したことで再び脚光を浴びる形になったファイル共有ソフトだが、こちらももういい加減市民権を得てもいいんじゃないか。


著作権法1条には、こうある。

「著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もって文化の発展に寄与」。

ここでいう「公正な利用」が果たしてファイル共有に適用されるか微妙だが、遅かれ早かれそうなること、そして「(お金を払って買われることなくして)共有されてしかるべきと判断された所産」を共有することで、もって目的とされている文化の発展を損なうことにはならず、むしろ今までの音楽業界の生産者余剰を劇的に粉砕し、我々消費者が適正と思える額(限りなく0に近い)でそれ相当の財を獲得できる画期的システムを禁止することの方が、文化的ロスは遥かに大きい。


『芸術立国論』の著者である平田オリザ氏の言葉を借りれば、現在は文化不況である。金が足りないわけではないが、使うべき対象が見つからない。趣味を持たず、適当に付き合いをこなしながら何か楽しいことを探している人間が溢れている。

万物の価値がうつろい、新興があれば没落があるという(歴史的)事実を受け入れていない人こそ、不況脱却の足を引っ張る張本人である。

2010年10月17日日曜日

サッカーの公共性

ザッケローニ監督が日本代表を率いて4試合(働いたのは2試合)たったが、ワールドカップ以来サッカー人気がさらにすごく上がってるのを何となく感じる。

僕みたいな昔やってたから見てるぐらいのレベルでもそうなんやから、実際はもっと人気は出てるやろうし、事実物販の売り上げは上がったり代表戦(まあ相手がアルゼンチンと韓国やから)チケットが即売り切れるなど、証左にも事欠かない。


日本代表について意識する回数が増えるとともに、元選手とか監督候補みたいな人が個人的な見解として昨日の試合はどうだったとか、監督の采配がどうだとかいう記事がやたら目につくようになってきた。

プロとして意見を述べるなら、その立派なサッカー観をひっさげて監督に面接してもらえばいいと思うのに、どうもそうではないらしい。


一昔前なら、そのような言いたい放題はあっちこっちから引っ張りだこだったろう。戦術に関するうんちくやら、世界で流行ってることなんかは情報の乏しかった時代は重宝されたやろう。

ただその時代の亡霊に引っ張られることがあったらもったいないし、僕はもうここまで大衆人気の出たサッカーはもうそういうプロフェッショナルである意味私的なものからは離れていってるから、やるなら協会か居酒屋にしてと思うのだが、まあ彼らには彼らのプライドがあるみたいやから、なかなかそうはいかないらしい。ブログでファンが下品で云々みたいなことも書いてあるようですが、ファン同士が喧嘩する理由と、彼らが時代遅れの主張を繰り返す理由と、たぶん似てると思うんやなあ。

サッカーって結構、一神教に近いと思う。



話はそれるが、アルゼンチン戦の中継の途中にこんな一幕があった。

ゲストとして来ていた元ミラン監督のレオナルドに実況の加藤浩次がべったりいちゃいちゃしていたため、せっかくのいい試合がほぼ実況なしとなり、なしならいいが加藤の下品な会話が公共の電波に流れ出したというもの。

どうもイケメン外人に目がないミーハー実況のお陰で初采配を歴史的勝利で飾った監督の初めての声がかぶって全く聞こえなくなり、そのまま中継が終了した。

あの手のややこしい人間の首をさっさと飛ばさないと、進歩が遅れる気がするけど。やっとちょっと相手が外国に住んでるってだけで自分に劣等感持つ時代が終わろうとしてるんやから。

エルコンドルとフェスタ

今年の凱旋門はレベルが低かったのか。
そう思わせるほど日本では一素質馬の域を出なかったナカヤマフェスタは善戦した。負けはしたけど、内容も強かった。


1999年(もう10年も前になるんか)に同じくエルコンドルパサーが凱旋門賞で二着したけど、当時エルコンドルに乗ってた蛯名騎手(フェスタと同じ)は攻めかたを海外仕様にいじってたし、あれはあれでたぶん功を奏してたから何とも言えんけど、いつの間にか普通に手が届くんじゃないかと誤解してしまいそうなほど、フェスタの走りは夢に溢れてた。


競馬後進国といわれた日本で、こんな瞬間が見れることは嬉しいことや。
ありがとう、サンデーサイレンスとかダンシングブレーヴ。君たちのお陰です。

来年あたり期待できそうなら、見に行きたいもんや。

2010年9月28日火曜日

芝居下手も似てるけど

昨日のブログを投稿した途端、また巡視船がたくさんうろうろしだしたようですね。あっちはそんなことをする理由があり、こっちはそれに付き合わされてる以外はこんな争いをする理由がない。そこにイライラするわけですが。



これほどじゃないですが、先日2年半の実刑を喰らった押尾裁判にも似たような事例がありました。正確に言うと押尾亜希子の方なんですが…


周りの大反対を押し切り結婚した旦那が案の定やらかして、別れるわ億単位の慰謝料請求するわあっさり芸能界復帰するわやりたい放題。


誰かの言葉を借りれば、『周りにそれう○こやからやめときって言われたのに拾って食べて、やっぱり腹下したから金寄越せ』と言ってるに等しいのだ。まあ流石に訴えは取り下げたようですがね。
子供の名前付けるときに反対しなかったのも、同罪ですよ。


この裁判、何かがおかしかった。元妻が出廷しないのはおかしい。離婚しただなんだとは言うけど、ちゃんと最後まで見届けるべきでしょう。夫婦ってそんなもんでしたっけ?

反対押し切ったあの時の熱病はどこにいってしまったのだ。


いよいよ裁判員が量刑決めようかって時に、『テレビでは押尾被告を悪いように映してるので、それをさっ引いて考えてください』という裁判長の言葉もおかしくねえか。
何のための裁判員制度だ。そして何のために最終決定が裁判官に委されている。
一見正しいようにも思えるが、報道も含めてモノを冷静に見る目がないと、馬鹿にされた感じだ。死刑か、無期懲役かを争う裁判でもなかろう。


加害者の容姿が優れていれば量刑は軽くなり、被害者の容姿が優れていれば量刑は重くなることは既に常識として知られているようだが、今回に限って言えばやや加害者側に有利に傾いたようだ。

2010年9月27日月曜日

せめて大人たれ

尖閣諸島についてごねてる後進国の蛮族のことはとりあえず国連なり国際司法裁判所に任せるとして、彼の国の人をそもそも受け入れられない人は多い。

戦争世代や、その世代の教育をある程度引き継いだ我々にとっても彼らは、靖国だ従軍慰安婦だと時にピンとこないことや時には事実かどうかもわからないことで大騒ぎし、戦争が終わってもう65年も経とうというのに借金まみれの我が日本からことあるごとにむしりとろうとするイメージ、そしてあのどうしても図々しくふてぶてしく見える態度、その他諸々の理由でだいっ嫌い思うが、半分は日本が訳のわからん戦争ふっかけて迷惑かけた、その後ろめたさが原因である。

ほとんどの世界地図で中心に広大な国土を構え、人口は地球人の20パーセントを占める国にとって、豆みたいな国に喧嘩売られて(うち一度は敗北、2億テールの賠償金)、というのはおそらく耐え難い屈辱であり、フランスと揉めたドイツやイタリアがとっくに和解して同じユーロ圏で生活を営んでいるのとは訳が違うのだろうね。

おそらく彼らの脳内は中世以前の中華思想で止まっており、彼の船長はコロンブス感覚で新諸島発見の喜びに小躍りして(ピースして)英雄気取りで帰国したのである。植民地時代のトラウマを抱えた南シナ海の国々の心中を察するに、捉えたコロンブス(史実では只の虐殺者)を返した弱小日本の姿勢のせいで、もはや世界の警察を自負するアメリカにすがるしかなくなった。

アメリカが南洋に介入するとどうなるか。キューバ危機を考えるとわかりやすいんかな。今の日本はアメリカにとって、借金も返さねーし約束も守らない、キューバ以上に価値のない属州でしかないから、あの時ほど真剣に取り組んでくれるかは疑問だ。日本の領土と認めたのは、己の良識を疑われたくないからだと推測する。

まあとにかく、未だに植民地時代の幻想を引きずった上に覇権国アメリカに嫉妬し、武力に任せて周辺国を脅かすあの姿勢は、とてもじゃないけど文明のある国の所作とは思えない。あの国家首席は、あの不細工な顔と短い足でナポレオンにでもなったつもりなのか。もう2010年なんですが…何のために国連ができたのか、一回憲章読めばいいと思うよ。
ナポレオン以降の歴史教科書が太平洋戦争以外抜け落ちてるなら責めはしませんが。


さてこれとは別に、彼らの見た目にイライラするタイプの人もいるようですが、センスのかけらもない服に偽物のブランド品を身につけて海外旅行先でイライラするトーンでぺちゃくちゃくっちゃべる姿は、我々も同じです。少なくとも20年前の姿ですが。日本にも他の国の人からどう思われてるか、思いの至らない人が多すぎる。

我々が今持つべきは、知識も分別もない子供が初めて火を扱うのを見守るような、寛大な親心です。駄々こねて金要求されたりサイトダウンさせられたら、とりあえずヨダレを拭いてあげましょう。

2010年9月6日月曜日

意識のクラウド

仕事の合間に喫茶店に入った時のこと。

二階の喫煙席にあるはずの灰皿が無くなっていた。おそらくピーク時間を越えて、灰皿は出払ったもののまだ洗えていないと想像できた。一階の従業員のところへ行く必要があってどうしようか迷っていた時、40前後の女性が一階から上がってきて、「どうぞ」と灰皿を渡してくれた。

単純に灰皿を渡してくれたことがありがたかったというわけではなく、ほかの人のために何個か持って上がってきてくれたことと、二階から降りようとしている僕が灰皿を取りに行こうとしてるという予想の正確さに感動した。


経済が悪化して、どの会社も自分の利益を確保するために奔走しているようだが、僕は「共感」の大切さを見過ごすわけにいかないと思っている。同じ感覚を職場で感じることができれば、仕事の効率も上がることはもちろん管理職の知るところだろうが、昨日まで仲良かった仲間がリストラにあったり、思いやりを保つために必要な収入まで目減りして大変ですが、「感覚のクラウド」が叫ばれることを望みます。

2010年9月3日金曜日

享受の意味

働かなくなったり、学ばなくなったりする若者が増えていることについての理由を探る研究の中で、興味深いものがあった。それは現代の若者が何かにつけて「等価交換」を求めている、というものである。

つまり自分たちはこれこれこんな労力や時間(「不快という貨幣」:内田樹氏)を差し出すから、お前たちは何をくれるんだという一見合理的な論法である。学校での勉強や大学進学、会社勤めなど価値の見えにくいものに対して、彼らが貨幣を差し出さなくなった、というものだ。


この問題についての一番の懸念事項は、以上のような発言をする若者に対して大人が「いい大学に行っていい就職をすればいい暮らしができて云々」という類の下手な説明しかしないことで、この説明が自分たち若者のお勉強や勤労からへの逃げ道を直接的に塞ぐものでないことを彼らは気付いているのだ。

日本国憲法で決められている通り、教育は権利である。「なぜそんな権利享受しなければならないんだ」というような問いは、少なくとも一昔前にはなかったものであり、「新しい日本人」が生まれてきたようだ。下手な言い訳をせずに「そんな質問をされると思わなかった」と返せばいいし、「どうして健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を享受しなければならないか」という質問に対しては首を締めあげてやれば気付くだろう、と内田氏は説く。うん、なるほど。


権利といえば、また聞きなれない権利が認められようとしているらしい。
その名も「移動権」(http://jafmate.jp/safe/20100622_1303.php:ej Magazine参照)。
よくわかりにくいですが、要は「人からコンクリートへ政策」の合法的な逆走ですかね?穴埋めと言いますか。「人のためのコンクリート」か。

ものは言いようやなあ。

2010年9月2日木曜日

気になる平均寿命

とっくに亡くなっていたはずの高齢者の死亡届を役所に提出せず、年金や特別手当をもらい続けていた「遺族」が次々現れてきている。まあそこまでして、という感もさることながら、その不当にもらい続けていた年金の穴を埋めるために、あっちこっちの税金が上げられることを考えたらとても怒りを抑えることはできない。

なぜ捕まえる理由が「死体遺棄」だけなんやろうなあ。
立派な詐欺じゃないですか。とても悪質な部類の。意思が確認できないとかそんな感じなんやろうか。
「社会通念」ってなんなんよ。
まあ「気づいたら死んでた」とか、5年前に部屋に引きこもったきりでてこなくなったとか、もはやコントとしか思えないような理由で親の存否を確認しない日本人は、もう地縁血縁の薄れというよりは別のところを疑ってしまう。言ってて恥ずかしくないんやろうか。


これからもどんどん同じようなケースが出てくるやろう。役所が家庭回りだしたからね。
とにかくこいつらのせいで福祉が多少立ちいかなくなるのが早まったんやから、逮捕できないならできないで全国の皆様に謝罪させるとか全額返還させるとか選挙権なくすとかしないと真面目に税金納めてる人かわいそうやで。

まあ何より、この手の犯罪者の言い訳が一番うけるわ。

2010年9月1日水曜日

民主党代表選告示

かつては理念に共感もしていた小沢さんのことが嫌いになった。

なんでこの期に及んで代表選出馬?
勝ち目がないから出るな、ということではなくて、まだ何も説明してないでしょうが。自分の不祥事(疑惑)について。

そんな人が万が一代表選に当選して総理大臣になったところで、どうせまた野党の不毛な質問攻めにあって重要案件の審議ができませんでした、とかいうねやろ?


彼の政治手腕に期待して、とか言ってる人たちも一体何なん。政治手腕なんて発揮する間も与えてもらえないのは目に見えてるでしょうが。


あくが強いのは悪いことばかりではないんでしょうが、時代遅れもはなはだしいな。
自分が引くことによって理念が達成されることもあるのがわからんのは、ただの子供やな。偉そうにしたいだけとしか思えなくなってきた。


菅さんが再選するように、一国民として祈っときます。

2010年7月24日土曜日

なぜSNSは出会い系サイト化するのか(未)

2003年に発生したソーシャルネットワーキングシステム(mixi)は近年、出会い系サイト化が著しい。過去に例をとってみれば、インターネット界初のSNS、米の「フレンドスター」は起源そのものが出会い系サイトであった。SNSが出会い系サイトと無縁になれない理由は何か。ここではその理由を、2つの古典に求める。

そもそもSNSは人間の脳の発達と深くかかわっている。ロビン・ダンバーによれば、ダーウィンの適者生存に照らせば明らかに不要なこの大きな組織が、数百万年前の人類が群れで生活していく中でだましあいや信頼関係の構築の必要性に駆られて発達した(マキャベリ的知性)とし、この中で人間は食料や異性の奪い合いを行ってきたのである。これが現在のSNSにおける穏やかなコミュニティといわゆる「荒らし」の議論に酷似していることは、SNS構築における人間関係の構築に対して興味深い含蓄を与えている。

最近有力になりつつある説としては「性淘汰」によるというものがある。我々の心の創造性の発達が「社会脳仮説」におけるマキャベリ的知性によるものではなく、恋人選びのプロセスの中に原因を求める考え方である。求愛競争においては、女性よりもむしろ男性の方が熾烈な競争を勝ち抜く必要があり、優秀な遺伝子を異性に見せつける必要があり、それがなければ淘汰される(クジャクの羽など)。つまりSNSにおいて性的な魅力を相手に伝えることはむしろ自然界では当たり前のことであり、現在ではそれをインターネットの世界に求めているにすぎない。また顔の見えないコミュニケーションが、劣等感を打ち消したり、自信を持たせたりする効果があると思われる。

(参考文献:ソーシャルネットワーク・マーケティング/山崎秀夫氏)

2010年7月20日火曜日

“類は友を呼ぶ”

何となく趣味が似てる人が自発的かつ自然に集まったり、友達がしてることを自然と自分もしてしまうことを社会科学的に説明すると、『社会的伝染』というらしい。

クリスタキスとファウラーの実験
健康診断の記録用紙に記入したデータをもとに、「誰が誰と知り合いか」を割り出し、肥満が伝染するかを検証。

友人が肥満→自身が肥満になる確率が57%上昇。
友人の友人が肥満→同じく20%上昇。
友人の友人の友人が肥満→同じく10%上昇。

この法則を、「3次の隔たりの法則」という。


同じ事例は、喫煙についても見られる。

友人が喫煙→自身が喫煙する確率が36%上昇。
友人の友人の友人が喫煙→同じく11%上昇。


どう考えたってウイルス性ではないこれらの事例は、友人同士のコミュニティーの中で「何が普通か?」という『社会的信号』が狂うから、という仮説をもって説明されている。

           (クーリエ8月号)

2010年6月30日水曜日

レンピッカ展

兵庫県立美術館で開催中の、レンピッカ展を見に行った。



1920年代の派手なポーランド社会で派手な生活をしてたレンピッカが世界大戦を経て忘れられていき、それに対抗してもがきながら堕ちていくさまがよくわかるように展示してあった。

絵を見れば描いた人の気持ちがわかる、って言いますね。
そんな感じです。
レンピッカ自身は感性と才能の人であったようなので、なおさらです。


緑の服を着た女性(あれは実は彼女の娘だそうですが)が颯爽と歩いている絵が有名ですが、むしろ戦時中の堕ちていく途中の絵を見てもらいたいですね。

2010年6月24日木曜日

ああそのために法律があるのか

広島県のマツダの工場で11人もの人を跳ねたとして逮捕された男が、秋葉原のあの事件の犯人と境遇がよく似ているとして話題に上っている。

秋葉原は派遣社員、広島は期間工。
この共通点が、労働形態の間違いを指摘するなどといった極端な話にならないことを願う。
似通った労働条件で働いていたからシステムが悪というのなら義務教育もそうだし、言ってしまえば両親が(存命中だろうとなかろうと)いるという点も一緒ではないか。

大量のワーキングプアを生み出したとされるこの問題が、一定の影響を与えたことは見ればわかる。わかるんやけども…いったい誰が義務教育と労働システムとの線を引くのかという問題は残る。


昔コンビニでアルバイトをしてたときに、そこの店で買った物を学生が近くのマンションの前で食い散らかし、片付けずに帰ったことで、なぜか店に苦情が来た。後で湧きあがってきた怒りを分析してみたところ、
「その理論だと作った人間が一番悪い」というものでした。つまり責任の所在を明らかにする線引を、近所のおばちゃんによって勝手になされたという怒り。


だからといって「結局本人の自己責任」というのはいささか思考停止な気もするし、自己責任のない人にある日思い立たれて無差別殺人に巻き込まれたくない人は、銃を持っていいということになる。

思いのほか難しいな、これは。

情報処理業という黒船

全世界を興奮と期待の渦に巻き込んだKindleやiPadの普及で電子書籍が簡単に読めるようになるということで、各部門に新しい変化が生まれるという予想(懸念)が起きている。


かつて電子書籍の発生を予測した時(その時はすでに開発中)、液晶画面は目が疲れるから、予想以上には広まらないという指摘を受けたことがある。この点は画面の広さ、画素の進歩、雑誌等との相対比較によって問題はほぼ解決したと思っているし、まあ何より最新機器で優雅に本を読むという欲求には勝てないのだと思う(かつてパソコンが開発された時の指摘と同じ)から、大丈夫なのだろう。


電子書籍の普及が抱える問題の一つとして、雇用の喪失というものがある。
つまり紙媒体での情報を発信している業界の雇用喪失が予想される。
ひいてはゴミの処理業者、リサイクル業者の仕事が減って、人件費を削減するというものだ。

容易に予想されることだが、ゴミ処理業からこれからしばらく需要が伸びるであろうIT業界への労働資源の移動が簡単ではないというところが頭が痛い問題ではないか。使う能力が大きく違う。



参考までに、家庭や事業から出てくるゴミの内訳について挙げておくと、
家庭ゴミのうち紙などの資源ゴミ(主に新聞や雑誌と想像できるが)の内訳は20パーセント前後、事業ゴミになるとそれプラス5パーセント前後になる。5年前に家庭ゴミが有料化され、燃やせるゴミと燃やせないゴミの量が減ってきているから、この内訳はさらに広がるばかりだ。たぶんエコブームもそれを手伝うことになる。
この仕事を失うのは、大きなダメージだろうと思うのだが、聞く限りでは今のところ雑誌界から反対の意見は聞こえてきても、ここの業界は損失が未知数なのか、あまり発信がない。

その発想がなければ、ますます電子社会による被害を被るばかりだと思うのだが、杞憂なんだろうか。


まあでも自分のことを考えたときに、やっぱり本のレイアウトとかは魅力ではあるし、目に見える資産として考えたときに(不経済ではあるが)満足感は得られるし結構重要な要素を占めている気がするから、そう簡単には無くならないのかもしれない。
ただ電子書籍は出版社を挟む必要がなく、出そうと思えば作家が勝手に発信して、今より多い収入を得ることができ、さらに本(ソフト)の価格は下がるから、それとあれを足してこれと比べた時にどうなるかはわからない。

2010年6月8日火曜日

セカンドライフ再考

どんなコンサルタントの話を見ても、会社の成長を妨げる要因の一つに会議の質と量があげられている。

よく言われているのが、日本人は会議に集まることを第一義に考えており、それが会議の質を貶めた上、徒に時間だけを浪費している、というもの。小学校のときの「終わりの会」を思い出す。


主に日本とは会議の質を異にする海外において、会議の際に「セカンドライフ」が再び活躍しているらしい。数年前に流行ったセカンドライフは、最近では国内外の企業が撤退して空疎化し、その潜在能力のほとんどを発揮できないでいたようだ。


セカンドライフ成長時代を支えたのは、主にmixi世代や2ちゃんねるユーザーで、ウェブページのような2次元のソフトとして使用していた向きが強い。
今セカンドライフが再び注目されだしたのは、twitter世代の後押しがあるのではないかと思う。つまりもっと立体的な、ライフログ的な使われ方をしてきていると思うのだ。

立体的な使われ方は、広い派生を生み、爆発的な想像力を生む。
セカンドライフが本当のセカンドライフに今度こそなりうるか、大きな挑戦だと思うのである。

2010年5月20日木曜日

温故知新

沖縄普天間の基地移設について、徳之島の3町長の対応がやや異なるのは面白い。
全員反対なのはわかるが、「話が平行線だからもう首相とは会わない」というのは大人としてどうだろう。その中で高岡・徳之島町長の対応は群を抜いて「話のわかる大人」感がある。

アジアをはじめとした海外に比べて、日本の歴史教育は考えられないほどレベルが低いそうだ。
そういえば小学校で卑弥呼と豊臣秀吉の名前さえ覚えていればそれなりに満足な点数が取れて、以降では日本史が苦手な生徒はその勉強を避けることのできるカリキュラムが存在する。

つまり、日本史の勉強においては「日本史に興味のない」人間を簡単に、かつ多数作り出すことが可能だ。ちょっと信じがたいことだが、「自分の国について全く知らなくても、選挙権を持つ一大人として社会に出られる」ということを意味する。このことは

1:今回の普天間のような「歴史的問題」に直面した時に人々が「めんどくさいから感情論」に流れる可能性があること(深く勉強した者も民主主義によって淘汰される可能性がある)

2:「お上」の言っていることに対して、冷静かつ建設的な判断ができなくなること

という点で、問題が深いと思っている。

なんで自分の国の歴史の勉強と、世界史の勉強が全く同じ扱いなのか。
敬語すらろくに使えないのにTOEICでいい点取って喜んでる大学生みたいですね。


歴史を知ったからといって基地の移設をじゃあ代わりに大阪が引き受けますかといえばそうでもないだろうから、引き受けに関しては全く別の問題が発生すると思いますが、少なくとももう少し建設的な話し合いができたのではなかろうか、と思うとちょっと残念です。自分達の置かれている立場をよく知ってもらえるまたとない機会であるにも関わらず、その努力を惜しむ町長。単なる島の人気者で終わってしまったらもったいないじゃないですか。


   (読売アンケート)

徳之島に関しては敗戦後53年までアメリカに接収されていたという経緯があり、その点では沖縄と同じ扱いに入ると思いますが、そんな島への基地移設に賛成か反対か、是非歴史を極めた人の目からも議論してもらいたいと思います。

2010年5月10日月曜日

スーパーフレックス

スーパーフレックスであるという働き方は、できるときにできる仕事をできるだけやるというイメージに近いですが、アメリカなどではこれを導入することでより多い余暇の時間を作り出すことに成功しています。

世の中には働くことが好きで仕方ない(そこまでではないけど僕にもその気がある)という人もいるんですが、大方の人にとっては余暇が生活を豊かにすることは間違いないでしょう。
外国人が自由で、なおかつ人生を楽しんでいるように見えないこともないのはこのおかげというのもあるんでしょう。


スーパーフレックスという概念を導入するにあたって障害となることがあって、制度を変える生みの苦しみなんて気の遠くなるような問題はさておき、「飲みニケーションの喪失への恐れ」が漠然とあるんじゃないかと思っている。つまり、年配世代は若い世代の職場での付き合いが薄れていくことを恐れているというもの。


その(一部の若い世代にとっての)悪しき習慣は、上の世代の引退によって解消されるのであれば、まああともって10年かな。なんて希望的観測をたまには無責任につぶやいてみる。

2010年5月8日土曜日

それは責任ある発言だろうか

今世間を賑わせているギリシャでは、圧倒的な税収不足に悩んでいるそうで、その主な理由が医者や弁護士など富裕層の脱税によるものだという。どのぐらいひどいかというと、富裕層の納税額は同国の年金受給者のそれより低いという、ちょっと考えられない事態だそうだ。

たいていの人は、どれだけ税金を納めてもどうせ自分には回ってこないだろうからといって納めないようだ。もうこれは一種のモラルハザードで、ゲーム理論で言うところの国家という公共財へのただ乗りに当たる。

おととい亀井金融担当大臣がギリシャについて、「日本にはアメリカなんかの国債を買うぐらいの体力があるからギリシャの状況とは違う。逆に大騒ぎすると大変なことになる」などという主旨の発言をした。
国債の性格と、膨らみ続ける借金を考えると、とてもギリシャが人事とは思えないのですがどうでしょう。
日本という国は、企業にたとえるととっくに倒産している会社に当たるわけですが、日本の国債はもういつデフォルトの憂き目にあってもおかしくない。
この事態を理解した上での発言なのであれば、どこが違うのかよく説明しないと、国民が知らないと思って適当なことを言ってると後で大変なことになりませんか?

資金よりむしろ

同じ大学の先輩に当たる、ベンチャー企業家の話を聞いた。
彼は今の僕と同じぐらいの年に大学に通いながら起業し、もうかれこれ10年間社長として経営に携わっておられるそうだ。

話の内容としては主に起業の際にどうしてもぶち当たる「資金集め」に関してだが、こちらの方はまあ確認程度の話になった。

それよりもむしろ僕の興味をひいたのは、話の最後にしていた雑談だ。
ニュージーランドに生息する、キーウィという鳥の話。

キーウィは昔は鳥だった。
それが、ニュージーランドという閉塞した空間での生活が長く翼が退化して飛べなくなってしまった。
今の日本人の若者は、この状況に陥ってしまっているという話だった。


人の話に久しぶりに聞き入ってしまった。
おそらく高校時代の古文の授業以来。



ニュージーランドは環境的にはなんら問題がないところだろう。
それは日本で生きている僕も日本に対して同じことを感じている。
みんながみんなリスクをとって挑戦することを避け、安易な道を選ぼうとする。
周りから浮くことを恐れ、翼を失い、飛ぶ能力の代わりに安定と、そこから来る心の平安を求めようとするのだ。

しかし一部には、こうした状況を打破しようとする人たちがいる。
起業して、新しい何かを始めようとしている。
そんな人たちを支援する、ベンチャーキャピタルという業種がある。
ここの業界はなぜか発信が少ない。まあ、頼る人が限られるからあえてする必要を感じないのかもしれないが、そんな道もありますよってことを発信すれば、もうちょっとこの閉塞感が解消されるんじゃないかなあって思う今日この頃です。

2010年5月6日木曜日

答えの出し方の問題

世間ではゴールデンウイークだったようですが、休みは一日しかありませんでした。
GWってGo to Workの略だったかと思うほどに。


連日報道されている普天間基地の移設問題ですが、なんであんなに謝罪が遅い&少ないのか。
いろんなことを考えすぎて、謝り方を忘れてしまったのかと思うほどに。
これは僕だけじゃないと思いますが、政治家に100パーセント正しいことはして貰いたいと思ってはいるけど本当にそうできるとは期待していないし、でもやっぱりできないとか間違ったことをしたり言ったりしたのであれば普通の人と同じ感覚で謝って欲しい。普天間の問題がどれほど複雑な問題なのか、もう大体の人は知ってると思うしだからこそあとは誰かが首相の背中を押すかもう全部自分で決めるしかないこともわかってるんやから。

やれるだけのことはやってそれで文句を言う人がいるなら、その人が代わりにやればいいだけの話で(この問題に関してはできるとは思えませんが)もう100パーセント正しいかどうかなんて誰も考えてないでしょう。


以上のことを踏まえて今回の首相の沖縄訪問のタイミングは「いろいろ悩んだフリ」してみて苦境を(主に沖縄県民に)察して貰い情に訴えてみた、という風に感じている。
残念なのは「間違えない」という感覚が謝罪のタイミングを逃す原因になってしまい、そのために国民感情が逆撫でされてしまったことで解決の糸口がなくなりかけているということだ。平野官房長官の不誠実な言動も火に油を注いだ。「ウルトラC案がある」と期待させといて実際は現行案の修正版だった、なんていうのも正直国民の期待を限りなく0に近いものにした。


なんでこんなにセンスがないんやろなあ、と思ってしまう。「立ち上がれ日本」のネーミングが酷評されたときなんかも似たような感情を持った。


忙しすぎるのも考え物かな、と思う。
政治家先生には遠く及ばないが、忙しくして一般的な感覚を失うのだけは避けたいものだ。
そういえば最近、駄洒落でしか笑えない。

2010年4月30日金曜日

沢尻問題を考えてみる

いったい何があったのか。高城剛氏と沢尻エリカの離婚について、唐突な印象を受けた人が多いようだ。
沢尻エリカといえば将来を嘱望された若手女優で、弱冠24歳。「1リットルの涙」までの彼女を評価する声も少なくない。
そしてなぜそこまでかといえば、そっからの豹変ぶりが異常だったからだ。

彼女の豹変に際して高城氏が噛んでいるのは薄々分かっていた。僕が彼を見たとき思ったのは、「なんて運のいい人だろうか」ということだ。見た目は相当胡散臭い。「ハイパーメディアクリエイター」という肩書も胡散臭い。彼自身の市民権を得るために「沢尻エリカ」というセンセーショナルな広告媒体は、大きな役目を果たした。現に彼のブログのアクセス数はその後飛躍的に上昇した。広告としては価値のある結果だ。
そして彼にとって最もラッキーだったのは、ある程度沢尻の生き方に広告媒体としての方向性を与えるその行為自体を、社会に対してあれだけの影響力をもちながら沢尻自身が「尊敬できる」と誤解しうるガキんちょであったことだ。もしくは根っからの女優であったことが原因かもしれないが、それでは結婚生活なんて始まった時点で破綻してるし、話が終わってしまうので無視する。


かくして「有限会社高城」に就職した沢尻は、会社の広告塔として立派な役目を果たしてきた。
転機が訪れたのは「別に…」騒動。私生活に不満があったからという憶測も飛び交っていたと記憶しているが、あれは想像するに高城氏の計算だ。「女王様キャラ」として打ち出したが、過去とのギャップが激しく市場によって却下された。熱狂したのは一部の盲目的なファンだけ。その後の扱いの悪さを見れば、高城氏の戦略は明らかに失敗している。
焦った沢尻(裏に高城)は、涙ながらの弁解を行う。一度や二度の失敗についてはファンは寛大なので、そこでやめとけばよかったんだろうけども立て直せると踏んだ高城社長は次々と間違った方向性の広告を行っていく。「6カ条の要望書」がそのいい例だ。

間違った経営を続けた社長に対して、徐々に沢尻の不信感が強まっていく。
何度も話し合いはしたそうだが、その辺の話だろうと思う。で、そのたびに丸め込まれていったわけだ。なんせ高城氏のほうが一枚も二枚も上だから。そして、高城氏が自分のほうが上であることを認識していることが、この問題をややこしくしている。沢尻が家から逃げ出して、連絡先を変え、陰で「キモい」と暴言を吐かざるを得ない理由がこれだ。「目と目を合わせて話を」という発言は、もっともらしいようで自分の土俵に上げようとしているだけだ。都合がよすぎることにもはや沢尻は気付いてる。


こう考えると、初めは「この上ない痴話喧嘩」に思えたこの騒動が、「就職の難しさ」と「若者の幼稚性」という2つの問題をはらんでいるように見えてくる。
なんやほかの人の意見を聞いてるとやれ別に…に関してはちゃんと謝罪文も書いて反省してるだの女優復帰した時の会見が誠実でよかっただのマスコミ向けの誓約書は最近暴走気味のマスコミを黙らせるために必要だのいかにも思考停止の暇つぶし論議が繰り広げられてますが、そんな話無意味やと思うわ。繰り返しますが、「彼女は将来を嘱望された女優」なんです。

もちろん夫婦の間の事情なのでちゃんと会って話す必要はあるし、どんな理由があれそれから逃げて勝手なことを言うのは子どもの証だし、少なくとも仕事がなくて生活のために金を入れてもらってるその人に対して「キモい」などというのは道徳的にありえない。自分自身のことがよくわかっていないかよっぽど常識がないか、なんでこんな奴をマスコミが持ち上げたがるのか理解できないぐらいのちょっと綺麗なクソガキやん。「筋道を理解できない子ども」で検索すれば、自分の周りで結構ヒットするでしょうが。


「どっちもどっち」と言ってしまえばそれまでなんでしょうがせっかく報道の在り方について考える機会があるのだからちゃんと考えてみてほしい。だいたい「6カ条要求」出されたときにもう沢尻ネタはでっかく取り上げないっていう暗黙の協定があったんじゃないんですか?それが離婚するとなったとたん、各社この有り様。こんな醜い人たちに、道理がとか筋道がとか報道する資格なんぞないのかもしれませんが。

2010年4月15日木曜日

第5章 利害の対立と協力

「囚人のジレンマ」において、(自白、自白)は支配戦略均衡点であり、ナッシュ均衡。
=個人戦略的な戦略
(黙秘、黙秘)は(自白、自白)より利得が大きい
=集団合理的な戦略
(黙秘、黙秘)は(自白、自白)に対してパレート優位であるという。

(囚人のジレンマ)
共同で犯罪を行った(と思われる)2人が捕まった。警官はこの2人の囚人に自白させる為に、彼らの牢屋を順に訪れ、自白した場合などの司法取引について以下の条件を伝えた。

もし、おまえらが2人とも黙秘したら、2人とも懲役2年だ。
だが、共犯者が黙秘していても、おまえだけが自白したらおまえだけは刑を1年に減刑してやろう。ただし、共犯者の方は懲役15年だ。
逆に共犯者だけが自白し、おまえが黙秘したら共犯者は刑が1年になる。ただし、おまえの方は懲役15年だ。
ただし、おまえらが2人とも自白したら、2人とも懲役10年だ。
なお、2人は双方に同じ条件が提示されている事を知っているものとする。また、彼らは2人は別室に隔離されていて、2人の間で強制力のある合意を形成できないとする。

このとき、囚人は共犯者と協調して黙秘すべきか、それとも共犯者を裏切って自白すべきか、というのが問題である。
 (引用:ウィキペディア)



さらに、(黙秘、黙秘)はこの場合パレート最適であるという。
(黙秘、自白)、(自白、黙秘)もパレート最適
  ⇒ナッシュ均衡≠パレート最適


環境問題、自由貿易、軍縮の国際協力
 =社会的ジレンマ
→国家又は市場による解決
→それぞれに限界→話し合い、交渉を模索

プレイヤーに戦略のインセンティヴを与える仕組みをメカニズムという。(罰則、報酬など)
 =「拘束力のある合意」
自由な個人はメカニズムにただ乗りする可能性
 =メカニズムのジレンマ又は2次ジレンマ

第4章 ナッシュ均衡

B店の価格維持に対して、A店の値下げ(利得7→5)がトータルとして利得最大になるならば、これをA店の最適応答という。
A店の値下げに対するB店の最適応答も「値下げ」である。

1:両方とも値下げを行った場後の状態→ナッシュ均衡
2:両方とも値下げを行わない→ナッシュ均衡

1と2のどちらを選択するか?→均衡選択の問題
双方とも利得に関しては同値であるので、現実には利得以外の要素(文化、評判、目立った特徴=フォーカルポイント)が意思決定の基準になったりする。

ナッシュ均衡点とは、お互いの利得が最大化される点のことで、お互いの利得がイコールになる点のことではない。
ハト・タカゲーム等においては、(ハト、タカ)=(1,3)の状態もありうる。


ナッシュ均衡の性質
(1)ほかのプレイヤーが均衡戦略をとる限り、すべてのプレイヤーにとって均衡戦略をとることが最適応答
(2)どのプレイヤーも自分だけで均衡戦略を変えようとはしない

ナッシュの定理
純戦略の数が有限個の戦略ゲームは、混合戦略の範囲でで少なくとも1つのナッシュ均衡点をもつ


●フォン・ノイマン・モルゲンシュテルン
ナッシュ均衡はプレイヤーの合理的な行動を示すゲームの解

●ナッシュ
プレイヤーの混合戦略は、母集団の中の様々な行動(純戦略)の分布を表す。
これを繰り返した時、プレイヤーの平均利得は、行動分布によって定まる期待利得とほぼ同じ。
この期待利得を最大化するマス・アクションがナッシュ均衡(集団均衡)。
  →進化ゲーム理論(生物学)の基礎

2010年4月14日水曜日

第3章 戦略ゲーム

既存店に対して新規店が参入する場合、価格を維持するか値下げするかというゲーム=戦略型ゲーム
互いのとりうる戦略と得られる利得を表した表を利得表という。
プレーヤーの数が3人以上の場合は、利得関数を用いて表す。

どちらも同じ行動をとったほうが利得が高くなる(どっち側通行等)場合=協調型ゲーム

利害の対立するゲーム=ハト・タカゲーム(チキン・ゲーム)
ハト戦略・・・平和的
タカ戦略・・・好戦的
一方がハト、一方がタカだと交渉がまとまるが好戦的な戦略をとったほうが有利な状況である。
双方が好戦的ならば交渉は決裂する。

サッカーのPKのように、プレイヤーが確率的に行動を選択する戦略を混合戦略、確率1で1つの行動を確実にとる戦略を純戦略という。


企業の利潤
 piqi-Ciqi(pは価格、qは数量。iは品種)
競合企業が2の場合、p(ひいては利潤)は、相手の価格にもよる。
つまり、
 fi(q1,q2)=piqi-Ciqi
  →一般的に、これを最大化する行動をとる。
このような市場をクールノーの寡占市場と呼ぶ。
(特に企業が2社の場合、複占市場)


公共財の供給問題
寄付金Gで作られる公共施設に住民は私財を投入するか?
は公共財の限界便益に依拠する。
このような場合には、「ただ乗り」が発生する。(ゼロ和ゲームではない)

例題
http://www007.upp.so-net.ne.jp/hudousan/html/ddd.pdf

          (茂木喜久雄氏)

2010年4月13日火曜日

学歴と所得の相関関係(後半)

シグナリング理論(スペンス)

情報伝達に関する経済理論。
身に着けているものなどからその人物を推定する。
学歴は観察が容易で、そこから能力を特定。
  →情報の非対称性を解消。
大学が個人の能力を全く向上させなくても、個人は自分の能力を企業や社会に知らせるために、大学あるいは有名大学に(いわば勝手に)進学する。

1:企業の信念
大卒者は高能力、非大卒者は低能力
    ↓
2:賃金
大卒者は高賃金、非は低賃金
    ↓
3:求職者の反応
高能力者は大学進学、低は断念
    ↓
4:生産性
大卒者は高生産性、非は低

スペンスは暗黙のうちに市場の完全性を認めていたので、「お金がなくて進学できない」事態を想定していない。適正な利子率でお金が貸し出されるからである。
資本市場が不完全な場合は、親の富裕度がシグナリング効果を規定する。
学歴は経済的成功のシグナルでもある。(ウェブレン『誇示的消費』)

2010年4月12日月曜日

学歴と所得の相関関係(前半)

人的資本論(教育=人的資本投資)

大卒と高卒の賃金差は、大学教育によって知識や技能が増えたことによる生産能力の違いによって生まれる。
周囲に与える影響(コミュニケーション能力、統率力etc)にも違いが生まれる。
精神的便益の違い(思考力、分析力、応用力、判断力)。
外部性への影響、外部性からの影響大。

高い費用を払って大学進学をした人は、それとは別に放棄稼得(大学に進学せずに働いていたらその間稼げたであろう収入=機会費用)も払っている。一人暮らしならば家賃、電気光熱費も少なからず支払う。高卒者と比べてかかる費用が大きいので、将来的に生涯収益が高卒者に比べてどうなるかは不明瞭。しかし生産性の高い者については高い賃金がペイされ、労働市場の流動性がそれを解決する。

大学教育の私的収益率(1980年代)=6%
私大医学部=8.7%
国大医学部=17.1%

2010年4月7日水曜日

老いた亀もよく吠える

進次郞挑発に亀キレた!父の敵だ因縁郵政
 自民党の小泉進次郎衆院議員(28)が6日、国会で郵政民営化見直しをめぐり、父・純一郎元首相の天敵、亀井静香金融・郵政改革担当相(73=国民新党代表)と初対決した。
 
 進次郎氏VS亀井氏の初対決は衆院財務金融委員会。ゆうちょ銀行の預入限度額を2000万円に引き上げるなど、独自路線を強行する亀井氏に対し、進次郎氏は、世論調査で国民新党の支持率が0%台だったことをぶつけた。「支持率がほとんどない政党が、この国の制度の大きな変化を強行している」と指摘。見直し反対も5割にのぼるとして「国民新党の1丁目1番地だからやるという姿勢では、国民の信頼を得られない」と、かみついた。

 比較的冷静だった亀井氏も、低支持率を突かれてキレた。「小泉改革後の民営化が支持されていると思ってるんですか。マスコミの調査で政治をするなら、政治家はいりません!」「あなたのお父さんがやったことに帰っても、何の良いこともない」と、積年の怒りを爆発させた。進次郎氏は「大臣は国民をばかにしている。国民は、報道を見て自分で考える」と、 “世論軽視”だと批判。「思考停止しているのは大臣だ。1周2周先に行ったつもりが逆走している」「国民が求めているのは、小泉純一郎の間違いを証明することではない」。30分1本勝負は、亀井氏が反論できず幕切れとなった。

 進次郎氏の父、純一郎氏の民営化に反対し、自民党を追われた亀井氏が、政権交代で担当相となり宿敵の悲願を見直す。郵政をめぐる因縁の第2ラウンド。同委は進次郎氏の所属ではないが先輩議員のはからいで初対決が実現した
                    (nikkansports.comより抜粋)

この試みは面白い………わけないやろ!!
何やっとんねん…こんなとこで…

しかも煽ったのは周りの先輩議員。
よくこんなしょうもないこと思いついたもんや。
大臣が最近とち狂ってきたから、精神的に動揺させて不適切発言を引き出す作戦ですね?

郵政の民営化の意図なんてほとんどちゃんと説明しないまま断行したのに、今更「国民は小泉純一郎の間違いを指摘したいわけじゃない」なんてのも結構都合のいい話に映りますが、しかし的を得てるなと思うのは、国民の中に少しずつ浮かんできつつある亀井大臣に対する疑問というか「お前誰?感」を反映させてくれてますね。

最近のごたごたについて、いい記事がありましたのでご紹介させて頂きます。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/04/post-d0ae.html

「市場の失敗」やろ?

僕は基本的に自分のことをよくしゃべる人が好きでないです。
特に相手が夢物語を長時間話しているのを見ると、ほぼ例外なくフェイドアウトを決め込むことにしているんですが、

何で自分の夢を語られている時間ってあんなに不快なんでしょうか。
これはおそらく男子永遠の課題です。
こっぱずかしくなるのか、まぶしすぎるのか、暑苦しいのか、いずれにしても不快になる理由なんて特にないですよねー。
夢はいい、けど夢物語はやめて、という感じでしょうか。




ある程度要求されたり必要に駆られている以外で自分のことを話すのは自信がないから、という仮説を僕は立てています。弱い犬ほどよく吠える、というのと一緒だと思っています。
これと一緒にしていいものかどうかわからないんですが、昨日テレビ見てたら消えかけてるタレントが過去の(どうせ誇張されてる)不幸話を切り売りして知名度を上げるという番組をやってました。


自分自身を発信して金を稼ぐはずの芸能人が奇しくも上記の仮説を証明している気がして、つくづく大変な職業なんやろうな、で、やっぱ芸能人って数多すぎ、と思いましたわ。

2010年4月6日火曜日

第2章 選択と意思決定

意思決定問題の数学モデル
(1)選択対象の集合
   Xを可能な選択対象とする。
(2)選好関係
   xがyより好きか同じ程度であるとき、x>yと書き、
   同じ程度であることをxとyに関して無差別であると言う。

合理的な人間の選好関係の性質
(1)完備性:全てのxとyに関してx>y、またはy>xが成り立つ。
(2)推移性:全てのxとy、zに関してx>yかつy>zであれば、x>zである。
   =選好順序
xの効用を「U(x)=実数」(効用関数)と表すと、合理的な人間はこれを最大化するべく行動する。


宝くじのように確率的に定まる選択対象を「リスクを含む選択対象」、
1つの結果が確実に定まる選択対象を「確実な選択対象」という。
選好者は、客観的確率を含むリスクを持った選好についても完備性と推移性を持つ。


確率Aで結果xが起こる→期待効用
選択はこれを最大化する→期待効用仮説
MAX u(P)=p×u(x)+(1-p)×u(y)

期待効用仮説が成立するために
(3)独立性:P>Qならば、任意の確率pに対してpP+(1-p)R>pQ+(1-p)R
(4)連続性:P>Q>Rならば、pP+(1-p)RとQが無差別になる確率pが存在する。
この2つを満たす必要がある。
→フォン・ノイマン=モルゲンシュタイン効用関数


P:0.5で1万円もらえ、0.5で何ももらえない
Q:確実に5000円もらえる
P>Q→リスク選好型
P<Q→リスク回避型

株価の推移等不確実な事象に対して意思決定者の持つ意識=主観的確率
不確実な事象についても期待効用仮説は成立=ペイジアン仮説
ペイジアン仮説に基づく意思決定=ペイジアン意思決定理論

2010年4月5日月曜日

奈良に隠居旅行(後半)

法隆寺を出た後、一路奈良公園へ移動。

奈良公園は言わずと知れたシカの公園ですが、興福寺や東大寺、東大寺南大門などの史跡も多々公園内に存在しています。

興福寺。



ここから北へ南大門を目指す。











で、到着。南大門には有名な金剛力士像がある。
最近落書きが増えたとか何とかで、ネットが張ってあった。



ここを訪れるのは小学校以来ですが、何となく覚えてる。
この南大門で、転倒したことを。

奈良の寒さをなめた格好をしてたので、急いで帰路に。
行きがけに見つけて気になっていた通天閣に寄って、串カツを食べて帰る。

あんだけ店あるから、相当安いのかと思いきや普通の値段でした。
                  (終了)

2010年4月2日金曜日

奈良に隠居旅行(前半)

奈良に旅行に行ってきた。
総走行距離が50キロぐらいと表示されてたので、高速代ケチって下道で行ったら大阪出るあたりで後悔し始めた。
都会なめてた…

さて今回の目的地ですが、法隆寺、東大寺、飛鳥寺、そして行きがけ車の中からチラッと見えた大阪の通天閣です。

これらの中で最南端にある、飛鳥寺に着いたときはすでに晩の7時半を回っており、盆地の奈良はもう真っ暗。飛鳥寺は、



ちーん。

というわけで、晩飯を食いに。
もつ鍋を探したのですが、どうやらない?のかなんなのか、全く見つけられず。
近鉄の八木駅あたりで探してたんですが、てっちゃん鍋を発見。こっちではてっちゃん鍋の方が主流のようです。


宿を探して宿泊後、20キロ北にある法隆寺へ。
有名な五重塔。



有名な句。



件の高床式倉庫。

2010年3月30日火曜日

泡沫インフォメーション

本当に温暖化なん?っていうぐらい今日は寒くて、夕方から夜にかけて雪が舞ってました。
大体の人は、夏場に40度を超えたりすると「何年前まではこんなことなかったのに~」なんぞと大騒ぎするのに、この時期に雪が降っていることについてはあまり言及しない。
せいぜい「異常気象」という言葉で片付けたりするのだが、温室効果ガスの増加で異常気象が起こるなどということは聞いたことがない。

つまり、己の持っている気象についての知識では説明できないことは、たいていの人は見てみぬふりをする。


よく喫茶店なんかでコーヒー飲んでたりすると、自分のボーナスが下がってお金がないとか会社に文句言ったりする人を見かけるけれども、たいていの人は問題の本質について真剣に向き合うことをしない。自分の人生を左右しかねない問題にもかかわらず、学校で教えたりしないという理由で考えることを避ける。腐っても資本主義を掲げる国家でそれはどうなんだろう。



とまあ発言の責任の重さについて述べたところで、なんとも許しがたい問題が起きた。
3年前に発生した中国での毒餃子事件の容疑者が現地の工場の従業員で、どうも真犯人である可能性が高いというものだ。
発生した当時、中国当局は「現地混入の可能性はほぼゼロ(つまり混入させたのは日本人)」と発表した。
そのあらぬ疑いをかけたことについて、謝罪がないのは納得いかない。
言った者がちになってまうやないか。
そしてなぜに日本側からそれを求めたりしないのか。
おそらくほとんどの人は忘れていたのかも知れないですが、僕が暇なだけなんですか?

違うと思う。
たいていの人は情報に敏感でも、興味が薄いのだ。
どっかで他人事のような気がしてるような。
だからどっかでみたようなものが流行ると思う。

2010年3月13日土曜日

第1章 ゲーム理論とは何だろうか

各行動主体の条件 
 ①複数の行動する主体が存在する。
 ②プレイヤーはそれぞれの目標を達成するためいくつかの行動を選択する。
 ③目標の達成は、自分の選択のみならず他人の選択にも依拠する。
 ④一定のルールを守らねばならない。

③の状態を「相互依存関係」といい、「ゲーム的状況」とも呼ぶ。


主体の意思決定
 ①「いかに行動すべきか?」→規範的理論
 ②「実際に人々はどう行動するだろうか?」→記述的理論

②が①に影響および①を正当化する。


人間の前提 
 ①合理的:明確な目標とそれを可能な限り実現しようという意思(目標志向的)
 ②理性的:もし自分が相手の立場だったら…という洞察力と想像力(動物との違い)
 ③公平性および互恵性(相手に親切にされたらお返ししようという性質)の保持
合理性をゼロ座標とした上で実際の行動がどれほどそこから違うのかを研究することを、合理的構成の方法という。(カール・ポパー)


プレイヤーの目的が完全に対立するゲームをゼロ和ゲーム、そうでないのを非ゼロ和ゲームといい、プレイヤーの利得(効用)の和が一定数のゲームを定和ゲームという。
ゲームのルールが全てのプレイヤーの共有知識であるゲームを情報完備ゲーム、そうでないのを情報不完備ゲームという。
これらのゲームの中で「プレイヤーがどう行動するか」=「ゲームの解」となり、これをナッシュ均衡と呼ぶ。



経済学者マーシャル
「政治経済学または経済学は、…(中略)…一方で富の研究であるが、他方の、そしてもっと重要な側面は、人間科学の一分科である。」

LBS

LBS(Location Base Service)の可能性

スマートフォンの普及がライフログ的な投稿を促し、その受け皿としてアメリカで勃興。
地図は、静的な情報から動的なリアルタイム情報へと変化する。
→ツイッターとの融合


固定的なバナーの広告の地位は低下し、メディアバイイングは2年後には下火になる。
さらに、ローカル広告の競争が激しくなる。


                  (宣伝会議)

2010年3月12日金曜日

忍び寄る

アカデミー賞で和歌山県のイルカ漁を扱った「Cove」が選ばれた。
突っ込みどころはいろいろあるが、やはり巷を席巻しつつある「エコ論者」が一定の市民権を得ているという点で見過ごすことはできまい。

今日のニュース番組の特集で、海に生息し海産物にとって害のあるオニヒトデの駆除に、ヒトデだけに人手が足りません、などというものがあった。地球上の生物全ての命を貴ぶということであれば、非常に疑問を感じる特集だ。いったい人間の中には、「どこからどこまでは殺戮してもOK」という明確な基準があるとでも言いたいのであろうか。それであるならば、この世からさっさと消してしまった方が良いのは我々人間自身だ。


シーシェパードにしても2年前のグリーンピースによる機密書強奪事件にしても、全く妥協の余地がない、という時点で相手側にもう話す気がない気がする。エコ論者に対する違和感というのは、結局科学的に不確定なものに対して意見の相違があり、それを受け入れるか受け入れないかの違いなのだから、どこかで起こっているような宗教対立に等しい。そして宗教対立についてそれに一定の距離がある人間がいかに無頓着か、歴史を見ればわかろうものだ。





「まあそれはおいといて、シーシェパードを略してSSという記述がニュースの中でたまに見受けられるが、SSは僕らにとってみればサンデーサイレンスのことだ。勝手な表記はやめて貰いたい。」

というぐらい距離感のあることをエコ論者は唱えているということを自覚すべきで、今の方法では通用しないということをわかっとくべきじゃないかと思うのである。今のままだと、ダダをこねた子供がモノを投げつけだしたぐらいにしか思われない。

彼らの仕事は「言う」ことではなく「伝える」ことなのだから。
もっと理論的になって欲しい。
そして自らの発言の矛盾をさっさと解消しとくべきだ。

2010年3月8日月曜日

ウオッカ引退

今年のドバイワールドカップに出場すべく遠征し、前哨戦で惨敗したウオッカが電撃的に引退を表明した。
どうやらまた鼻から出血していたらしい。前哨戦の直線失速はそのためかもしれない。

同じくG1を7勝している皇帝シンボリルドルフや天馬ディープインパクトのような完全無欠さは全くなかった。府中専用であることに気づくのにも時間がかかった。あれだけの強さを持ちながら、全く融通の利かない馬やったなあ…


個人的なウオッカのベストレースTOP3

第3位 2009年ヴィクトリアマイル
気持ちいいぐらいの圧勝。桜花賞馬レジネッタ、エリザベス女王杯馬カワカミプリンセス、リトルアマポーラ(とスカーレットの妹)をちぎり捨てた。馬券も取った。



第2位 2009年安田記念
牝馬64年ぶりの日本ダービー制覇の後、全く不可解なスランプに陥っていたウオッカが、実に1年ぶりの復活劇。「ダービー馬はやっぱり強い」の名実況に号泣。



第1位 2008年天皇賞
長いブランクから復活した名ライバルダイワスカーレットとの壮絶な叩き合い。
直前にウオッカに凱旋門賞行きの希望を粉砕されたディープスカイと、ウオッカの鞍上を降ろされた四位騎手のコンビの意地の追走にも感動した。




ウオッカが記憶に残るのは、優秀なライバルに恵まれたことが原因だろう。
3年後、スカーレットの仔vsウオッカの仔が競馬界を盛り上げてくれるに違いない。

本当にお疲れ様でした。

2010年2月26日金曜日

そんなに長生きしたいか?


ジョセフ・E・スティグリッツ『Economics of the Public Sector』における望ましい税制
1:経済効率性
2:簡素
3:環境変化への対応の柔軟性
4:政治的正統性
5:公正
→これ以外にほとんど中立性についての記述が経済学上ではない。



税制を制定する際、必要な前提
①税が課されていない仮想的な世界では公的な介入がないので資源配分は効率的
②そうした世界の効率性を、税がある世界でも実現可能
           ↓
    実際は、両方とも正しくない。

ラムゼイ・ルール
税体系が最適な資源配分に影響を及ぼすことは不可避と認めたうえで、需要や供給の価格弾力性の低い財やサービスに高い課税をするのが良いとする。
つまり、生活必需品に対する税金を上げ、奢侈品の税金を下げると税体系は最適化される。
しかしこれには国民の理解が得られないだろう。

ジョン・A・マーリーズ
課税の累進性は労働意欲を喪失させるという意味でも上げないほうが良い。
これは、公平分配をよしとする日本の実際感覚とは乖離している。
                         (以上 伊藤元重)
                  

以下個人的感想
タバコ税がこれ以上引き上げられるというのは、ラムゼイ・ルールに背き、マーリーズの累進性に関する説にも反する。(日本人の大部分は本当に公平分配を求めているのかという疑問は残る。)
税収、課税対象の公平感etcの点において、スティグリッツの望ましい税制の条件1・4・5を満たさない。

言うまでもなく飲食店を含む公共スペースの禁煙条例は各方面からの税収を損ない、立法府への不信感を伴う。
もし受動喫煙云々で喫煙者に禁煙をお願いしたいのであれば、今まで非喫煙者がタバコ税によって受けてきた恩恵があるのだから、課税によって非喫煙者に喫煙者の通院費を払わせるべきだ。
都合のいい公平分配を生み出した「日本人の実際感覚」でいうところの「筋」だろう。

値下げ競争は時代に逆行

値下げしても需要拡大はできない

売り上げ=数量×単価
値下げ直後:数量(↑)×単価(↓)→微増
3ヵ月後:数量(平常)×単価(↓)→減。

ワタミチェーンの250円均一居酒屋参入でますます拍車のかかる居酒屋界の低価格戦争。


良いものを適正価格


数量(95%)×単価(105%)→作業が減り、経費↓→利益率↑


店舗に行かなくなる理由は価格が高いだとか品揃え、品質が悪い
            +
         店員の感じが悪い
    (挨拶・クレンリネス・品切れゼロ)
なのであるから、基本を徹底した上で価格を下げずに売れる商品を開発する。
(ナショナルブランドではなく、オリジナル)

              (成城石井 大久保社長)

どこぞの経営陣に聞かせてあげたい。

2010年2月17日水曜日

VS. SPEACH ACTER

異文化間のミスコミュニケーションについて、論文を書いた。
しかも全編英語で。
どうも天邪鬼な僕は、世代間のミスコミュニケーションについて書いてみた。
まあ、それが受け入れられるかどうかはわからない。

論文を書くにあたっていろいろ調べ物をしているときに、おもしろい記事が出てきた。

「ニクソンと佐藤栄作との摩擦」。
はしょって書くと、経済摩擦下の会談で関税を下げるための明確な政策を講じるように要請したニクソンに対して、佐藤首相は「Yes,I will take care of that」と回答し、ニクソンが真に受けたのに結局何も具体的な策が出てこないので、日米間の関係がすこぶる悪くなった、というもの。

アメリカ人は基本的に「Speach Act」というスタンスを取っているため、「Yes」は「Yes」、「No」は「No」を表し、日本人の言う行間とか「それは…な、わかるやろ…」というのは通用しません。
こういうニュアンスを重んじる日本人にはアメリカ人の明確な主張が少しきつすぎると感じるのはそのためでしょう。


同じ国に住んでいる人同士でもこの事態は想定できます。
ストイックに生活する人とか、すごい金持ちの息子とか、ちやほや可愛がられて育ってきた女の子とは話が合わないと感じることがあるのは、2者が「異文化」だからです。
一元論では説明できない。養老先生の言うように、多元論を用いてバカの壁をとっぱらう努力をしなければなりません。
しかし、その相手が一元論主義者ならどうするか。
これが今僕が直面している課題です。

2010年2月16日火曜日

世界を驚かせる(笑)

いつの間にあんなに差がついてしまったのだろうか。
サッカー日本代表は韓国代表に1-3と惨敗した。

選手のコメントにもあったように、個々のフィジカルの差は絶望的なものがあった。あっちこっちでボールを失い、カウンターから失点し続けた。得点も終わってみればPKの一点だけで、脳細胞の足りない自称ムードメーカーはあっさり敵の挑発に乗ってピッチからさようならした。

技術とか戦術云々は僕の場合はいいんです。
けど、あの大げさに倒れてファウルをアピールし、そっからまたやり直そうというサッカー後進国のような真似はもういい加減やめていただきたい。見ててかっこ悪いし、スピード感に欠けて楽しくない。

象徴的なのは先日行われた中国戦(やったと思う)で、ペナルティエリアに進入した日本は大久保のPKを狙った不用意な演技で簡単にボールを手放した。
あとでスローで見なくてもわかるほどひどいものでした。
誰がなんと言おうと僕は大久保を認めていません。相手にとってきわめてフェイタルなポジションにいながら100点満点で5点の演技を繰り返し、ボールを失い続ける。2列目から裏へ飛び出し続け、そしてこけ続ける。それがうまくなってきているのであれば、もう少しかわいげもあるようなものを。


相手が若手主体で、アピールを兼ねてアグレッシブに来ていたとかで、思い切りのよさもあったでしょう。
逆になんで日本にはないんかなあ、と思ってしまう。あなたたちはワールドカップ上位常連国ですか、と言いたくなる。昔っから(世界的にみると)たいしたこともない選手が妙にプロぶった偉そうな発言をするたびに笑いがとまらんくなる。なんであの人たちはあんな自信満々なんでしょうかね。


つまり、もっと謙虚にやってもらいたい。ファウルをアピールするのは勝手ですが、そっからドリブルで先へ抜けるつもりは元々ありました?点取る気あるんですか?弱いわかっこ悪いわで、もはやかろうじて残っていた愛国心すら消えうせそうです。

2010年2月14日日曜日

自分の矛盾を肯定するだけが大人じゃない

バンクーバーオリンピックが始まって、ついさっき上村愛子選手が4位入賞という残念なニュースが届いた。
本人は半分納得しているようなコメントを残しているが、4年間この日のためにやってきたのであれば4位が満足ということはないだろう。「プレッシャーから解放された」という風に受け取れた。


ところで、スノーボードのハーフパイプ、国母選手が日本選手団の制服を着崩していいたとか何とかで開会式を欠席させられ、しかし競技には出場できた、という出来事があった。
処分が下った理由はすごくあいまいで、まあ制服だからとか、いわゆる「腰パン」がアフリカからアメリカに移住した人が差別に抗ってのものだとか挙句の果てには制服は税金だとか本当にくだらない議論ばかりが渦巻いていて、事の本質に触れる議論は一切ない。

この国母という事件の張本人はスノーボード自体がちょっと日常生活からはかけ離れたスポーツで、まあ言ってみればスケボーしている人が全く恥ずかしがるそぶりもなしに公道を駆け抜けることができるのと同じで、幼少のころからプロライセンスを取ってその世界にいた人間からしてみれば至極当たり前のことで、「ちょっと人とは違うんだろうな」とは思ってはいただろうけれども「そのちょっと違う感じってかっこいい」と思ってしまったのであって、それはまあ厳密にいえば彼のせいではない。


一番責任が大きいのは「ぴちっとしないといけない時があって、それはこうこうこういうとき」という教育を外した教育者の責任であって、あんまり言いたくはないが「ゆとり教育の弊害」なのかもしれない。
そしてよくわからないのはオリンピックに出場した選手が守るべき「オリンピアズム」という存在だ。

http://www.joc.or.jp/olympism/charter/pdf/olympiccharter2007.pdf(オリンピック憲章)

こんなものはたして守らせる気なんぞあるのだろうかとも思うのだが、中途半端に「これ読んできて」って渡して守ってないからって処分というのはかわいそうな気がするし、僕は当然守らないといけないことと思っているのでもっと厳しく、そして根本的な精神を叩き込めばいいじゃないかと切に思います。

で、この程度の文章が理解できないというのはゆとり教育でも価値観の違いでもなく、ただ単に基本的学力が足りてないだけです。


確かにスノボーはかっこいいのかもしれんよ。
けどそれとルールを守るのとは関係ない。
ルールを守るというのは最近では「空気を読む」に近くなってきていますが、それがわからないようだと最高にかっこ悪い。
君を取り巻いている世論はそれですよ、国母くん。

2010年2月10日水曜日

懺悔<焦燥

ブログのタイトルを変えてみました。
意味は、中国の古典「史記」の一節をもじったもので
「桃とかすももは何もものをいわんけども綺麗な花をつけるので自然と人が集まってくる」
などというシャレた漢文。
名前負けしてしまわないよう、頑張りたいと思います。

ブログに加えてmixiやらmyspaceにも手を出している僕ですが、
携帯電話にネットは付いていません。

おそらくおよそITと名のつく職業に就く人間の中で、僕だけでしょう。
よってツイッターには手を出しておりません。
意味がないから。

そして最近精力的にmixiを開いてますが、モバイル専用のアプリへの勧誘は気持ちだけ頂くようにしています。

あと、この場をお借りして打ち明けますが
最近流行りのデコメールなるものは全て表示されず
添付ファイルとして送信されてきます。
デコメールをもらえることはすごく嬉しいので黙ってたのですが
残念ながら文面に穴の空いた無機質な感じになっているので
貰った瞬間は軽くへこんでいます。



さて、今日で大方テストが終わります。
そのテストに使う大事なレジュメを貰ってなかったので教授に問い合わせたところ
多忙を理由に却下されました。
焦った僕はまさに昨日友達に連絡をとり、京都まで取りにいくことになりました。
阪急西院駅からタクシーで10分ほどのところにある彼の家でコピーし
あーよかった、これで大丈夫やと安心した僕は
そのコピーしたばっかのレジュメを彼の家に置き去りにし
あげくの果てに人んちから持って来た傘まで電車に置き去りにしてやりました。
もはや僕にできることは、
取り乱さないように目を閉じて心を落ち着かせることしかないです。
色んな人、マジごめん。



何はともあれもうすぐテスト終わるし、
3月からはより精力的に動き回るつもりにしてますので
予定が合えば皆さん遊んで下さい。

2010年1月27日水曜日

「あの経済発展は何だったのか」を1500字で表す

 日本は先進工業国の中で最も遅く経済的発展が始まった。1880年代半ばだといわれている。この頃政治的には大隈重信時代のインフレを収束すべく松方正義が強烈な緊縮財政をしいたことでいわゆる「松方デフレ」が起こっていた。またこの頃の日本人の所得水準は、先進国の中で最も低い。それが今は他国と比べても遜色ない水準に達しているのだから、異常なキャッチアップがあったと想像できる。その原因はなんだろうか。
 まず、江戸時代にインフラが整備されていたことが挙げられるだろう。
 江戸時代の識字率は、シュリーマンが証言した通り実は高い(一説によると86%)。ドーア、パッシンの教育近代化論にあてはめて考えると、このことが近代化を早めた一大要因であることが考えられる。読み書き能力の普及は、近代日本の出発にあたって、社会的には学習・訓練の習慣とそれによる向上・出世の精神を植え付け競争社会への移行を容易にし、経済的には西欧の新知識、技術の習得を容易にし、政治的には近代教育制度の基礎を提供し、中央集権国家の形成に役立ったとするものである。
 次に、灌漑農業の浸透が挙げられる。
 多くの学者が述べているように、20世紀に存在した農地のほとんどは、江戸時代に由来する灌漑の恩恵を受けていたとされる。近世の灌漑は河川灌漑であり、治水を必要としていた。さらに一定の地域の用水管理のための水利組合といった制度の発展も必要とされ、このようなハードインフラの整備と制度の発展が、近代経済成長に寄与したと考えられる。
 そして、情報伝達の手段としての飛脚の存在も見逃せない。
 彼らは一般的に理解されているような明治期における近代郵便制度の基礎になっただけでなく、絹織物、生糸、ベニバナなど陸上輸送の担い手であったということも忘れてはならない事実である。幕末には書状、金子、荷物、為替、歩行荷物を扱い、金融システムの担い手ともなっていた。江戸時代、江戸は金貨幣本位であり、大坂は銀貨幣本位であったので、領地間の金銀為替取引が盛んに行われた。
 堂島米市場では現代における倉荷証券や船荷証券のように米の現物が証券化され、帳合米市場と呼ばれる先物市場が併設されていた。堂島の意義を強調した山片蟠桃は、現物市場と先物市場を両輪と考えていたようで、「日本のアダム・スミス」と評されることもある。 

 明治に入って工部大学校が設置され、科学技術の進歩が、教育水準の上昇と制度の整備により中身を伴う成長へと誘うことになる。また伊藤博文が日本に招いた技師、ヘンリー・ダイアーによって「エンジニア思想」(エンジニアは社会発展の原動力であり、牧師・医師・法律家といった旧来の専門職と並ぶ専門職であるという考え方)がもたらされる。このことは日本における近代技術発展に大きな意味を持った。
最後の重要な要件は、ガバナンスである。
その大きな要素は、官業払下げと殖産興業政策であろう。官業払下げは、開拓使官有物払下げ事件に代表されるように現在では汚職の要因となったという説もあるが、払下げを受けた岩崎、浅野、古河、三井などが払下げ以前に企業経営能力を身に着けていたことは見逃せず、払い下げられたすべての事業が成功したわけではないことから、かつての説は一面的であるといわざるを得ない。殖産興業政策においては、鉱山を幕営工場から引き継ぐことから始まり、内務省と工部省がそれを担った。この政策の導入には、岩倉使節団の働きが非常に大きかった。官業払下げは、①国家統治に必要な軍工廠、造幣局 ②多くの資本と高い技術を要する金銀銅鉄の鋳練溶解所、印刷局、郵便電信 ③工業勧誘のためその模範を示すにとどまるものに限り、傾斜的な投資をした。この判断が結果成長のためのインフラが整備されることにつながり、飛躍的な成長を遂げたと考えられる。

近代養蚕業における取り組みを1500字で表す

 市場経済の導入は、言うまでもなく社会の構造、社会組織を大きく変えてしまう。日本の近代移行期では、都市・農村の区別なくそれが顕著であったのだが、特に農村において再編や新たに創出されたものについて検証してみる。
 従来の比較分析の基準は主にイギリスが対象となることが多いが、そのイギリスにおいて市場経済の導入が共同性を著しく喪失させたという概観が主流であるにもかかわらず、日本の特に農村においては明治期以降の自治村落や町内会と同様の地域住民組織へと制度組織的変容を試みていることが明らかにされ、コミュニティーの結びつきが市場経済に対抗しうる大きな力となっていたことがわかった。このエッセイでは、18世紀における養蚕業が、人々の共同性を所与としてどのような変革を遂げていったのかをみる。

 18~19世紀の蚕種取引市場は地域によってさまざまな経営的相違がみられる。
①福島信達地方では、「蚕種家」的発展がみられた。(蚕種家は、伝統的に蚕種取引に商人的な参入をしない文化で、蚕種商人も輩出されるが、彼らは蚕種家ではない。蚕種の切り出し生産もするが、地域内でしか行っていない。)
②信州上田地方では、「蚕種商人」的発展がみられる。(生産する商人としての色彩が強く、市場の需給関係に柔軟に対応する「種師(技術をもった商人)」的取引が行われた。)

上記の上田地方では特に、自家生産、「切出し生産」、蚕種家・蚕種商人からの蚕種仕入れ(周辺の蚕種家から市況に応じたスポット買い)を通じて、高い品質を保ち、技術的参入障壁を作るという地域の蚕種業の保護とブランド化を図った。さらに販売活動においては、長期的信用市場としての「蚕種場」取引(信用を軸とした顧客関係)、「掛け売り」取引(養蚕農家の製造生糸販売後、残金の回収→収穫量・品質によるディスカウント)などが慣行として行われ、生産者と顧客との間はさらに強い信頼関係で結ばれることになった。
1797年には神明講が設立され、秩序の維持と販売・仕入れ活動の保全、相互扶助(旅商の困難さへの対応)、品質保持、貸付金の回収、など蚕種業保護のために大きく寄与した。1830年ごろになると、同族との結びつきが強さを増し、種師的技術が共有され、外部市場効果をもたらすとともに、同族的信頼を背景とした資金調達が可能になった。

幕末期の蚕種輸出ブームを経て、養蚕業が再度国内市場中心に再編成されて以降、塩尻村は蚕卵紙製造販売業者の集住する近代行政村(29業者)となり、全国でも有数の蚕種製造地帯である上小地方の中心地となっていた。
上塩尻村ではどのような共同性が存在していたのか。
 第一に村方三役(庄屋、百姓代、組頭)と五人組制度、年貢徴収、寄合を例とした領主支配・村落内行政的共同性。次いで同族集団における私的な共同性。さらに土地・山・水の管理・保持や、蚕種商人仲間(神明講)、金融講などを例とする経済生活における経済的共同性。そして最後に、居住・冠婚葬祭・警備・治安にかかわる社会生活上の共同性が存在していた。
 幕末期の蚕種輸出ブームを経て、養蚕業が再度国内市場中心に再編成されて以降、塩尻村は蚕卵紙製造販売業者の集住する近代行政村(29業者)となり、全国でも有数の蚕種製造地帯である上小地方の中心地となっていた。これを根拠として塩尻村は神明講を脱退している。

 しかし以上のように地域的生産的結びつきを強めていったコミュニティは、自ら推進した養蚕業の発展によって機能不全に陥ることになる。蚕種業の展開は雑業労働力の需要を生み、村外からの労働資本の移動を呼び起こし、その結果人口と商品が流入して商品経済化が進み、村内同族団の生産・生活組織としての機能が低下したと考えられる。この結果、「村」がイエ・ムラ的諸関係から引き離され、単なる行政的枠組みとして鈍化させていったと考えられる。

市場経済の興りを1500字で表す

 最初の水田稲作は、低い技術水準、小規模な労働力編成によって可能な土地で始まった。このような条件に適する土地は、水稲に不可欠である水が自然に容易に得られる湿地であり微高地に接する沼地や小さな谷間、山麓の湧き水などが利用される。大和政権を例にとれば、唐古の沼地から安定して水が供給され、早害を受けにくいという条件がそろい、安定した収穫が安定した経済基盤となったのである。様々な祈祷が存在していたことからもわかるように、水は古代社会において大きな問題であり、その絶対的な存在を確保しうる集団はコミュニティとして強い結びつきをもたらす。雨乞いの儀礼は決して個人のものでなく、村落全体が共同して行う。土地に対する支配力が私的個人を単位とするようになっても、なお水田耕作に不可欠な用水は村落社会共同で維持・管理された。神を代弁する巫女や遊行僧のような超越的存在もまた村落社会を統合する一要因となっていた。
 
超越的存在を媒介として水田耕作が保証され社会が維持されることは、土地に対象化される経済蓄積によって経済過程の再生産が常に可能となったことを表している。耕地が保証されていると、人々の生活はその耕地上で安定的に拡大し、経済的得失を越えるまで自らの延長ともいうべき耕地を手入れする。耕地は神聖性を帯びているので、やがて人間を越える存在として次代に受け継がれていく存在となり、その大小で「イエ」の格付けがなされるようになり、土地所有の有無で一義的に定義された村落社会の秩序が生まれる。神聖視された水田は安定的に維持され、最大の収穫をあげることができた。
 人々は年中行事などを通して水田を経済的に、かつ象徴的に村落社会に結び付け、その結果村落社会は強固に地縁的に団結した共同体となる。しかしそこには経済的対立が内在し特に土地所有に関しての対立は顕著であった。その緊張を仲介する手段として、対等な立場にある第三者が規範的に等価値の財貨あるいはサービスを交換するというようなことが行われた。田植え、稲刈りなどの農作業における手間の貸し借りなどはその一つの例である。この財とサービスは、本来的な経済的使用価値とともに、この使用価値と不可分に社会関係を維持しようという当事者の意志も担っており、それに相応なものを返さない場合は恥とされた。
 このように地縁共同体としての村落社会は経済的観念を徐々に内包していき、神仏の加護によって絶対的に加護されていた自らの耕地は、外部からの貨幣の流入によって劇的にその概念を変えることとなる。
 
水田社会は相対的に自給自足しながらも、山地社会と漁村社会を必要とした。また同時に水田社会の安定した生産力は、この2つに対して圧倒的に優位に立ち、政治的にも支配力を持った。さらに各種職人も各社会を訪れた。鍛冶屋、鋳物師は、農具につける刃、鍋、釜など農業に欠かすことのできないものでありながら自給できないため、特に重要であって、神聖かつ特別な存在とされ、崇められると同時に差別の対象となり、強制的に村落の外部に住まわされた。これが市の興りである。市はやがて農村社会の内部に取り込まれる。安定的な生産力が象徴世界に対する水田社会の自立性を高めたからである。水田社会は自らの中に寺社を建て、神聖な領域を設定した。
 中世になり荘園領主の所在地、交通の要地も市開催の土地となり、年貢の販売や輸送を担う問丸が発生する。15,6世紀には市は2,3里ごとに設置され、周辺の日切市と協定することで経済取引の効率を高めた。同時に金貸しが営業するようになる。市に出入りする人は必ずしも専門商人ではなく、職人兼商人が一般的であった。農民も商人的性格を持っていた。原初の社会的分業である。しかし市場が設置され市場集落が形成されると、経済的取引は専門商人に担われ、これまでの兼業商人は、市場商人になるかあるいは商品を販売して歩く行商人として市場において補完的な役割を果たしていくことになった。

サブプライム問題を1500字で表す

 サブプライムローンは、米国においてクレジットスコアの優良でないと判断された顧客に対して提供されるサービスで、アフリカからの移民の多い米国で銀行口座を持てない人が多いことなどを背景に設定された。当然、債務履行の信用度は低くなる。しかし当時の住宅価格上昇が、債務不履行の危険性をわかりにくいものとしていた。本来債務不履行のリスクは通常の住宅ローンよりも高く設定されるが、住宅資産価格が上昇していれば担保余力が拡大するので、新たな借り入れを行えるからである。ローンを組めない人が組むことでさらに信用は低下しようものだが、米国政府が証券格付け機関と政治的に結託し高評価を与えていたことで危険性はかき消され、住宅ブームは加速した。
 住宅バブルの続く間、信用の低いサブプライムローンは証券会社によって転売されていき、新たな差益を生みだしていった。彼らにしてみれば、いずれは破綻するシステムだから転売してしまったほうがいいと判断したわけだが、顧客獲得は行われ続けた。彼らの間ではすでにモラルハザードが起こっており、クレジットヒストリーのない顧客や、本来はプライムと評価される顧客に偽りの評価基準を見せ、強制的にサブプライムローンに加入させるという例も見受けられるようになった。こうなると顧客の方にもモラルハザードが起こりうる。債務不履行が目立ち始め、同時に住宅バブルが囁かれるようになった。住宅価格上昇神話が崩れたのである。
 米国政府は「略奪的貸付」と呼ばれる回収を始め、低所得者は過重な手数料を求められたり、結局返済できずに物件を差し押さえられたりといった問題が生まれた。2006年に住宅価格の上昇が急速に鈍化すると、延滞率は目立って上昇し、今度は融資専門会社に対する融資に金融機関が慎重になり、専門会社の中には資金繰りが悪化して経営破綻する例が出始める。これに伴い大手金融機関では貸倒引当金を増やさざるを得ず、利益を圧迫した。サブプライムローンは危険度を分散させるために貸付債権として証券化・分割され、複数の金融商品の構成要素の一つとして組み込まれ、さらに世界中の金融機関が扱いだしていたため、その被害は極めてグローバルなものとなった。

 以上の問題の背景には、あくまで債権者側が従来見積もっていたような債務不履行確率およびそれに基づく貸付金利の設定以上に実際の債務不履行が発生してしまったことがあげられ、そのようなことは他のどの経済取引においても起こりうることである。今回の場合、米国は上昇を続ける住宅価格に裏打ちされた住宅バブルを過信し、また新たな金融市場の開拓に熱を上げすぎてしまったことが原因である。米国人にとって住宅取得はアメリカンドリームの大きな一要素であり、その点がさらにサブプライムローンを生みだした人間の目を曇らせてしまったのかもしれない。
 また現代市場経済は、上で述べたとおり極めてグローバルになっており、わが日本でも株価が大きく値を落としたのは記憶に新しい。2000年にITバブルが崩壊して以来金融危機が続いているが、様々な国の出来事がまたグローバルに影響を与え続けている限り危機からの脱却は難しい。日本では輸出が回復しつつあるという報道も一部あるが、トヨタの高級車などは中国ではなく米国の富裕層の消費が戻ってこないと立ち直れないし、本質的な景気回復にはやはり米国の経済が立ち直りが不可欠なのである。特に日本では内需が少ないと嘆かれて久しい。日本の景気が立ち直る時、常に輸出が伸びている(貿易収支向上)。その点で現代市場経済が我が国に与える影響は大きい。

2010年1月18日月曜日

何なんだこのイライラは

大方の社会学者や経済学者が予想した通り、そしてまた関係省庁の「努力」にもかかわらず、去年の年末から今年の年始にかけて「派遣村」が出現しました。

そして最近のニュースで、派遣村の住人に配られた2万円が一部住民によって酒やらギャンブルに使われ、全くなんのことだかわからんくなった、という記事が明らかにされ、法的手段によって回収を試みる、ということです。


派遣村の住人はもちろん、企業の派遣切りによって職を失い、それによって住む場所がなくなった人などなのですが、企業の派遣切りに対しては当初から根強い反発があり、まあ非人道的だなんだって騒がれましたし、キャノンの会長なんかは経団連の幹部も兼任していたことからその批判の矢面に立たされ「ワースト経営者ベスト10」に選ばれたりもしたのですが、今回のことで派遣村出現の根本的な責任はどこにあるのかという深い問題が浮き彫りになりました。


僕はかつて在籍していた大学のゼミで、「ニートは働きたくないわけではない」などと発言し、ゼミ生の反論を受けたことを覚えています。
それは当時でていた統計やデータを基に独自の数字を導いた結果であったことは間違いないですが、あくまで質問に関する返答がどうしても主観的になるという質を持っているうえ、「社会的にどう見られるか」というデリケートな問題も含んでいたため若干の(言ってみれば)見栄のようなものも含んではいるでしょうから正確なものではないと自認してはいましたが、ここまで酷いとは。


今なら胸を張って言えます。
ゼミ生のみなさん、ニートは基本的に働きたくありません


ちょっと前に北野武の某番組で、京都大学出身のニートが働かずに生きられるということを実証していました。





ゆとり教育が問題視されていましたが、僕は社会全体が「働かないこと」に関してまだまだ寛容だということが一番の問題ではないかと思っています。要するに、働かなくても生きていけるだけの下地とフォローができているのです。


このことに関して厚生労働省がどの程度見識を持っているかはわかりませんが、長妻大臣の発言もすごく言葉を選んでいたし、なんか理由がどこにあるかもわからないしでもすぐに減るわけでもない、叩くとネット上で結託し一つの世論を作っている気になるからややこしい。

これをほったらかしてたからこうなったわけですね。



インタビューのなかで通行人がいいこと言ってました。

「誰かのために働くのが仕事」

もう仕事をする意味なんてのはここに求めるしかない。
「自分のために」なんて言うとすぐに甘えてしまうし、さっき言った通りお金なんてなくても生きていけないことはない。

かくいう僕は、自分の心の弱さを知っているのでしんどくても体に鞭打つしかないのです。
ほっとくと、ニートになってしまうのを知っているから。
別にストイックなわけでも、仕事が格別好きなわけでもないのです。


自分の守るべき財産やら人に使われるならともかく、働く気もない人にパチンコ打つお金を配るために働いているわけじゃないのだよ。
当然ですけど。

2010年1月13日水曜日

利益窃盗

よく話題に上る「食い逃げは罪にならない」ですが、調べると以下のことのようなことだそうです。


刑法235条では、「他人の財物を窃取した者」は窃盗罪となっています。

食い逃げの場合、店に払った金銭は商品の売買に使ったものとは解釈されず、サービス(利益)に対する対価として払われたとされてしまう
これを払わないことは「利益窃盗」と呼ばれ処罰の対象とはなっていないそう。

まあ乱暴に言うと、「まずかったから金は払わない」のと一緒ということですね。
どれだけうまくても、自分は満足しなかったといってしまうとそれに対する対価は払う必要がなくなってしまうわけです。



納得がいかない人のために、この手の人を立件しようと思えば店員を脅すか(利益強盗)、「財布を忘れたので」と聞いた(利益詐欺)なんぞといろいろめんどくさいですが方法はあります。利益強盗・詐欺は処罰対象になっています。もしくは「はじめから食い逃げするつもりで来た」ことを立証するとかありますが、「どの時点で犯行を決意したか」は立証が難しい。

まあ実際は検事の厳しい追求があるので言い逃れはできないようですが


改正されない理由は、利益窃盗は「債務不履行」と解釈され、これが犯罪に指定されれば刑事だけでなく民事の債務不履行も全て罪に問われることになるがそれが不可能、よってバランスをとるためにほったらかしてるのではないかということです。
          (以上 2010/1/18発売 プレジデントより)


コンビニで雑誌を買うことがたまにありますが、「立ち読み」は僕に言わせれば「情報の万引き」だと思うんですが、おそらくこの「債務不履行」になるんでしょうか。
そのことを知ってかしらずか、長いこと立ち読みをした客はしばしば罪滅ぼしのように買わなくてもよさそうなコーヒー買って行きますよね。

旧体制の亡霊

鳩山首相に名づけられた「宇宙人宰相」というニックネームは、(語呂はともかく)見た目意外に「相互理解の困難」という点において非常に巧妙に付けられた仇名だと思う。


僕は何度言っても分かり合えない人のことを「異国の人」と呼ぶことにして、ストレスを最小限に抑えている。
つまり「違う言語を使っている」という意味なのであるが、「宇宙人」はその際たるものであろう。
おそらく家柄の違いや掲げる目標(温室効果ガス25パーセント削減)のテンションの違いなど、さまざまな要素を含んだものだと思われる。


何度も言っているとおり僕は選挙に寄っていないので現政権の批評はできないが、タバコ税が上がるらしいとか、不利な事情はちょくちょく耳に挟んだり、事業仕分けはどの論調をみても基準はともかく手法としては評価されているとかそれなりの知識しかないのだか、小沢一郎氏のやりかたについてどうも納得が、というかムカついて仕方ない。


どう見ても彼の傀儡でしかない鳩山氏を尻目にやりたい放題、という風に見えるのは僕だけじゃないはず。
中国要人との天皇の謁見の件、新財務相選任におけるわけの分からない小沢詣で…

彼は自分の言うとおりにならないとすぐに駄々をこねだすことで有名だそうですが、こんな誰でも感じそうな違和感にも気づかないほど子供だというのでしょうか…


実は昔彼に関する著書を読んだことがあり、その圧倒的なカリスマ性に惹かれもしました。
ただ、こんなやり方は間違ってる。
先の事業仕分けがなぜ、おおむね評価されているのか。
自民党時代の相次ぐ(見えないところでの)不正な資金の流れやら汚職、天下りなんかに嫌気がさしてた有権者が、その可視化に興味を持ったからでしょう。
挙句の果てに不正資産の保有なんて、何も変わってない感丸出しじゃないですか…



平治の乱で敗れ、平清盛の恩赦にあって死罪を免れ島流しにあった源頼朝が、帰ってきて平家を滅ぼす。
当時自民党に在籍しリクルート事件で罪を免れ、民主党に流れ着いた小沢一郎は、駄々をこねて民主党を滅ぼす。
今日は頼朝が亡くなった日ですが、なんか気になるんですよねー

2010年1月11日月曜日

All By My Measure

挨拶も大変遅くなってしまいましたが、

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。


今年の目標は、引き続き「ぶれない」ということ。
そして叶うなら、「禁煙」。


ちなみに今年のおみくじは「平」。
一昨年「凶」、去年「凶」、今年「平」。
上り調子ですねえ。
nauhia株、買いですよ。どうですかみなさん。