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2010年1月27日水曜日

近代養蚕業における取り組みを1500字で表す

 市場経済の導入は、言うまでもなく社会の構造、社会組織を大きく変えてしまう。日本の近代移行期では、都市・農村の区別なくそれが顕著であったのだが、特に農村において再編や新たに創出されたものについて検証してみる。
 従来の比較分析の基準は主にイギリスが対象となることが多いが、そのイギリスにおいて市場経済の導入が共同性を著しく喪失させたという概観が主流であるにもかかわらず、日本の特に農村においては明治期以降の自治村落や町内会と同様の地域住民組織へと制度組織的変容を試みていることが明らかにされ、コミュニティーの結びつきが市場経済に対抗しうる大きな力となっていたことがわかった。このエッセイでは、18世紀における養蚕業が、人々の共同性を所与としてどのような変革を遂げていったのかをみる。

 18~19世紀の蚕種取引市場は地域によってさまざまな経営的相違がみられる。
①福島信達地方では、「蚕種家」的発展がみられた。(蚕種家は、伝統的に蚕種取引に商人的な参入をしない文化で、蚕種商人も輩出されるが、彼らは蚕種家ではない。蚕種の切り出し生産もするが、地域内でしか行っていない。)
②信州上田地方では、「蚕種商人」的発展がみられる。(生産する商人としての色彩が強く、市場の需給関係に柔軟に対応する「種師(技術をもった商人)」的取引が行われた。)

上記の上田地方では特に、自家生産、「切出し生産」、蚕種家・蚕種商人からの蚕種仕入れ(周辺の蚕種家から市況に応じたスポット買い)を通じて、高い品質を保ち、技術的参入障壁を作るという地域の蚕種業の保護とブランド化を図った。さらに販売活動においては、長期的信用市場としての「蚕種場」取引(信用を軸とした顧客関係)、「掛け売り」取引(養蚕農家の製造生糸販売後、残金の回収→収穫量・品質によるディスカウント)などが慣行として行われ、生産者と顧客との間はさらに強い信頼関係で結ばれることになった。
1797年には神明講が設立され、秩序の維持と販売・仕入れ活動の保全、相互扶助(旅商の困難さへの対応)、品質保持、貸付金の回収、など蚕種業保護のために大きく寄与した。1830年ごろになると、同族との結びつきが強さを増し、種師的技術が共有され、外部市場効果をもたらすとともに、同族的信頼を背景とした資金調達が可能になった。

幕末期の蚕種輸出ブームを経て、養蚕業が再度国内市場中心に再編成されて以降、塩尻村は蚕卵紙製造販売業者の集住する近代行政村(29業者)となり、全国でも有数の蚕種製造地帯である上小地方の中心地となっていた。
上塩尻村ではどのような共同性が存在していたのか。
 第一に村方三役(庄屋、百姓代、組頭)と五人組制度、年貢徴収、寄合を例とした領主支配・村落内行政的共同性。次いで同族集団における私的な共同性。さらに土地・山・水の管理・保持や、蚕種商人仲間(神明講)、金融講などを例とする経済生活における経済的共同性。そして最後に、居住・冠婚葬祭・警備・治安にかかわる社会生活上の共同性が存在していた。
 幕末期の蚕種輸出ブームを経て、養蚕業が再度国内市場中心に再編成されて以降、塩尻村は蚕卵紙製造販売業者の集住する近代行政村(29業者)となり、全国でも有数の蚕種製造地帯である上小地方の中心地となっていた。これを根拠として塩尻村は神明講を脱退している。

 しかし以上のように地域的生産的結びつきを強めていったコミュニティは、自ら推進した養蚕業の発展によって機能不全に陥ることになる。蚕種業の展開は雑業労働力の需要を生み、村外からの労働資本の移動を呼び起こし、その結果人口と商品が流入して商品経済化が進み、村内同族団の生産・生活組織としての機能が低下したと考えられる。この結果、「村」がイエ・ムラ的諸関係から引き離され、単なる行政的枠組みとして鈍化させていったと考えられる。

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