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トータルライフコンサルタント 相続診断士

2010年1月27日水曜日

市場経済の興りを1500字で表す

 最初の水田稲作は、低い技術水準、小規模な労働力編成によって可能な土地で始まった。このような条件に適する土地は、水稲に不可欠である水が自然に容易に得られる湿地であり微高地に接する沼地や小さな谷間、山麓の湧き水などが利用される。大和政権を例にとれば、唐古の沼地から安定して水が供給され、早害を受けにくいという条件がそろい、安定した収穫が安定した経済基盤となったのである。様々な祈祷が存在していたことからもわかるように、水は古代社会において大きな問題であり、その絶対的な存在を確保しうる集団はコミュニティとして強い結びつきをもたらす。雨乞いの儀礼は決して個人のものでなく、村落全体が共同して行う。土地に対する支配力が私的個人を単位とするようになっても、なお水田耕作に不可欠な用水は村落社会共同で維持・管理された。神を代弁する巫女や遊行僧のような超越的存在もまた村落社会を統合する一要因となっていた。
 
超越的存在を媒介として水田耕作が保証され社会が維持されることは、土地に対象化される経済蓄積によって経済過程の再生産が常に可能となったことを表している。耕地が保証されていると、人々の生活はその耕地上で安定的に拡大し、経済的得失を越えるまで自らの延長ともいうべき耕地を手入れする。耕地は神聖性を帯びているので、やがて人間を越える存在として次代に受け継がれていく存在となり、その大小で「イエ」の格付けがなされるようになり、土地所有の有無で一義的に定義された村落社会の秩序が生まれる。神聖視された水田は安定的に維持され、最大の収穫をあげることができた。
 人々は年中行事などを通して水田を経済的に、かつ象徴的に村落社会に結び付け、その結果村落社会は強固に地縁的に団結した共同体となる。しかしそこには経済的対立が内在し特に土地所有に関しての対立は顕著であった。その緊張を仲介する手段として、対等な立場にある第三者が規範的に等価値の財貨あるいはサービスを交換するというようなことが行われた。田植え、稲刈りなどの農作業における手間の貸し借りなどはその一つの例である。この財とサービスは、本来的な経済的使用価値とともに、この使用価値と不可分に社会関係を維持しようという当事者の意志も担っており、それに相応なものを返さない場合は恥とされた。
 このように地縁共同体としての村落社会は経済的観念を徐々に内包していき、神仏の加護によって絶対的に加護されていた自らの耕地は、外部からの貨幣の流入によって劇的にその概念を変えることとなる。
 
水田社会は相対的に自給自足しながらも、山地社会と漁村社会を必要とした。また同時に水田社会の安定した生産力は、この2つに対して圧倒的に優位に立ち、政治的にも支配力を持った。さらに各種職人も各社会を訪れた。鍛冶屋、鋳物師は、農具につける刃、鍋、釜など農業に欠かすことのできないものでありながら自給できないため、特に重要であって、神聖かつ特別な存在とされ、崇められると同時に差別の対象となり、強制的に村落の外部に住まわされた。これが市の興りである。市はやがて農村社会の内部に取り込まれる。安定的な生産力が象徴世界に対する水田社会の自立性を高めたからである。水田社会は自らの中に寺社を建て、神聖な領域を設定した。
 中世になり荘園領主の所在地、交通の要地も市開催の土地となり、年貢の販売や輸送を担う問丸が発生する。15,6世紀には市は2,3里ごとに設置され、周辺の日切市と協定することで経済取引の効率を高めた。同時に金貸しが営業するようになる。市に出入りする人は必ずしも専門商人ではなく、職人兼商人が一般的であった。農民も商人的性格を持っていた。原初の社会的分業である。しかし市場が設置され市場集落が形成されると、経済的取引は専門商人に担われ、これまでの兼業商人は、市場商人になるかあるいは商品を販売して歩く行商人として市場において補完的な役割を果たしていくことになった。

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