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2009年5月31日日曜日

判官贔屓ダービー

今日5月31日は日本ダービーです。僕のこのブログは去年のダービーの時期に始めているので、ちょうど1年ということになります。たまにでも見てくださっている方はありがとうございます。このように競馬フリークというのは季節の変わり目をレースを基準に感じたりするのです。


JRAが今年になってやや張り切ってCMを打ち出しているおかげで、僕の周りにも「レース名ぐらいは何か聞いたことある~」って人が増えてきました。うれしいことですね。今大泉洋さんが部長とのゴルフを断るために大怪我をした体の特殊メイクをするあいだ、佐藤浩一さんがテレビで昔のダービーをビデオで見ているシーンがあるのですが、あれは1992年のミホノブルボンという馬です(よく聞くと「ブルボン先頭」と言っているのが聞こえる)。そして映ってはいませんが、そのときの2着の馬がご存知ライスシャワーです。


言うまでもなく競馬の中でもっとも有名なレースですから、まあいろいろドラマがあるんですが、僕が個人的にすごい好きなのが1997年のサニーブライアンが勝ったダービーです。

1996年10月5日、東京競馬場の新馬戦(芝1800m)にて3番人気でデビュー。スタートから先頭に立ち、逃げ切りで勝利。その後百日草特別で5着、続くGIII府中3歳ステークスに出走し、2番人気に推されたがゴッドスピードに敗れた。
その後、3歳500万円以下条件のレースを2度使うも勝つことが出来ず、2勝目をあげたのは年明け6戦目の中山芝2000mのオープン特別・ジュニアカップ。スタートから先頭に立ち、スローペースに落としそのままゴールし、オープンクラスとなる。次走のGII弥生賞で3着に入り、GI皐月賞の優先出走権を得る。太りやすい体質であったサニーブライアンは皐月賞の優先出走権を既に持ちながら、中2週で若葉ステークス(皐月賞指定オープン)に出走、生涯最初で最後の1番人気となる。結果は逃げることが出来ず、4着に敗れる。
この敗戦により皐月賞では人気を格段に落とすこととなる。
9戦目の皐月賞では11番人気、大外18番枠。スタートがあまり良くない馬のため、大西直宏は外から包まれない大外を事前に望んでおり、正に思惑通りとなった。一旦先頭を譲るが、第3コーナー辺りから再び先頭に立つと、そのまま2着のシルクライトニングをクビ差振り切見事皐月賞勝利(1冠目)を飾った。同レースの上位人気馬メジロブライトやランニングゲイルが後方一気の脚質のため、
サニーブライアンの勝利は「後方待機する馬が牽制しあい、また不利を受けた事によるフロック」というのが大方の見方であった。
東京優駿(ダービーのこと)の前にもプリンシパルステークス出走を予定していたが、調教中未勝利馬に蹴られて外傷を負ったため同レースを回避し、東京優駿へ直行することになった。外傷により調整に不安が持たれたのか、皐月賞の勝利がフロックと思われたのか東京優駿でも6番人気(シルクライトニングが競走除外のため実際には7番人気)と相変わらず低評価であった。そのような中、レース前に同騎手が「1番人気はいらない。1着がほしいんです」と語っている。枠は皐月賞と同じ大外枠18番で、また皐月賞以降、同騎手は「逃げ宣言」を繰り返していた。もし仮に、同じく出走している逃げ馬のサイレンススズカが逃げていれば、同馬がハイペースで飛ばしこれに巻き込まれてしまうことが濃厚だったが「もし先手を奪いに行っても、サニーブライアンは絶対に退かない。それでは共倒れになると思った。」とレース後に鞍上の上村洋行が答えたように、サイレンススズカらが控えたことで、レースではスタートから先頭に立ち、展開有利な「ややスローペースの単騎逃げ」体勢を作ることに成功した。この事態に「おのおの方、油断めさるな、逃げているのは皐月賞馬だ」と杉本清アナウンサーが実況している。そして東京競馬場の長い直線でスパートし、スタートから一度も先頭を譲ることなく2着のシルクジャスティスら後方に待機していた集団を1馬身抑えて、2分25秒9、上がり3ハロン35秒1というタイムでクラシック二冠目を制した。


弥生賞で3着に入り皐月賞の出走権があるにも関わらず若葉ステークスに出走(4着)し、さらに皐月賞勝利後はダービートライアルのプリンシパルステークスに出走(調教中の外傷により、出走回避)という中尾銑治調教師によるローテーションは、当時「使いすぎ」と言われた。中尾調教師は「使わないと馬が太くなりすぎる」と説明したが、評論家の大川慶次郎は「皐月賞を勝つほどの馬なら、自分で体を作るはず」と、安易にレースを使おうとする調教師の姿勢を批判した。

ダービーのゴール入線直前、フジテレビの三宅正治アナウンサーの「これはもうフロックでもなんでもない!二冠達成!!!!」という実況は、名実況としてファンに大変愛されている。それまで「皐月賞はフロックだ」と言われ続け悔しい思いをしていた関係者も、この勝利と三宅アナの実況により、大いに溜飲を下げた。
(以上、wikipediaより抜粋、筆者の都合で一部改訂)


僕は判官贔屓甚だしいので、こういう逆境だらけの人馬が頑張っている姿は好きなんですね。
以上のエピソードを読んだ後で、ぜひレースをご覧ください。

それでは、どうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=FOdVYsByiyo




ところで今回のダービーは、皐月賞馬が1番人気になってますね。
サニーブライアンと同じく、大外枠に入った模様です。

皐月賞で惨敗した組は軒並み人気を落としているようですが、乱ペースに飲まれてのものなので軽視は禁物、ということで今回もワイドで、人気薄を抑えたいと思います。

しかし今回は18頭中7頭の親がダービー馬ですか。
またドラマが生まれるんじゃないでしょうかね。


2009年5月25日月曜日

奥ゆかC

バーなどによく行かれる方はご存知かと思いますが、ああいうところでトイレに行ったりすると帰ってきたときに新しいおしぼりを手渡されることがあります。ちょっと敷居の高い居酒屋とかでもやってるところがあります。

あれは実はトイレに行ってふと現実に戻り、時計を見てさあ帰ろうかと思ったお客さんを再びお酒の世界に引きずり戻す効果があるそうです。僕なんかはなんて気の効くバーテンさんだろうかと感動するレベルのところまでしか思いが至りませんでしたが。

飲食店などの売り上げを計算する場合、「回転率」という概念は非常に重要になります。おそらく一日の売り上げというのは

客単価×使用卓数×回転率

で表わされるのかと思いますが、いくら客単価が高くても、居酒屋のようにだらだら居座られたのでは売り上げにはつながりません。飲食(特にお酒)の場合、回転率を気にしないといけないのは飲食量は逓減するからです。よって食べ終わってもだらだら居座り続ける客に対して、店側は熱いお茶を提供することになるのです。



ちょっと場面が変わるのですが、ある歯科医でうがい用のコップを一回り小さいものに変える、一日に診れる患者数が4人増えたそうです。一回り小さいぐらいだと違和感は感じないかもしれませんが、ディズニーランドの例をとってみると、トイレに鏡がないそうですが、これは人気テーマパークにおいて必ず問題になるトイレの混雑を避けるため、つまりは回転率を上げるためにやったそうなんですね。これについては「そこにあるべきはずのものがないという違和感」にだれもが感じるでしょうが、日ごろ感じる違和感にはやっぱり何か理由があるもので、そこに気づいたときというのは何となしにそのオシャレさにうっとりしてしまうのです。


コンサルタントという職業に従事したりすると、こんなことばっかり考えてて、いろんな手法を知ってるんやろなあと思うとそわそわしてしまいます。

もしどなたかこんな例を知ってたら、僕をうっとりさせてください。
よろしくお願いいたします。

2009年5月12日火曜日

「甘えの構造」要約 終章

「甘え」と現代社会
青年の反抗
現代の青年の戦う姿勢は、現代を支配する世代に向けられている。彼らは既成の社会に激しく反抗し、古い世代に強い不信の念を向けるが、家族レベルに目を向けると、必ずしも世代間の争いは起こっていない点にかんがみて、これはフロイトの言うエディプス複合と同じといえる。彼らが真に必要としているのは自らの限界を知るための力試しであり、その機会を今では政治家も宗教家も与えられないので、当分それに明け暮れることになるだろう。

現代人の疎外感
文明のはらむ矛盾と苦悩に若者は抵抗しながらも巻き込まれざるを得ない。その失ったものに、原爆以前に論じられるようになった公害よりもずっと前から気づいていた。現代人の魂の遍歴は、科学文明が人間の力を誇示した後生命的枯渇感を覚え、一度裸になって感性的に生きようと、つまり母性的なものへの憧れを示したゲーテのファウストに表れている。

父なき社会
古い世代と新しい世代の間では、価値観を巡る対立が起きるのであるが、古い世代の信じる価値観があいまいであるため、その争いの争点は明らかではない。つまり、新しい世代は自分たちがこれから信じて立つ価値観が古い世代によって与えられていないことに苛立っており、これは一種の甘えである。明治の西洋文化の輸入とともに旧来の父親権威も薄れ、それが敗戦によって決定的になった。しかし父性は人間性に根付いたものであるので、なくなりはしない。弱い父親への憤りは、強い父親を希望しているのと同義でもある。

連帯感・罪悪感・被害者意識
日本の中では、一方でうきうきしながら他方で漠然とした罪悪感に悩む人がおり、ニューレフトと呼ばれる人たちにはその傾向が特に顕著である。彼らは世界で起こる悲惨な出来事に対し傍観者でいることは犯罪と考えているが、すべての人を救えないのである種の罪悪感に悩む。連帯が強調されすぎるため個が失われる恐れがあるのだが個は連帯によって初めて価値を得るので連帯を求めえざるを得ない。この矛盾と加害者性に目覚め自らの特権的存在を解体することになるのは至極当然のことであった。日本人の連帯感はここに端的に表れている。

子供の世紀
大人のような子供や子供のような大人の増加は、世代間の境界の消滅を表している。現在は子供の世紀であり、フロイトのいう多形倒錯http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%BD%A2%E5%80%92%E9%8C%AF(wikipediaより)が起きている。これを最も尖鋭的に表しているのがヒッピーであり、その精神的態度が社会全般に及んで表れている。これは一種の退行現象ではあるが、次の未来の創造に向かう途中なのかもしれない。

                        

2009年5月8日金曜日

確か山田さん

この間NHKで結婚しない人はなぜしないという話を、一般人を招いて議論してました。

僕自身まだ結婚しているわけではありませんし、まああまりピンときていないというのが正直なところですが、結婚していない人がなぜしないのか、その理由を聞いているとどうも理由が後付けくさいものも多く、何となく釈然としない。

ひどいのになると、「結婚って男にとっては契約ですから」という理由になる。
確かにそういう側面があるのは否定しません。配偶者のために割く財産や時間も多くなる。でもそれだけでは結婚しない理由になっていないというか、それでもみんなしていく中でどうしてその人たちはしないのか。この間Caniが教えてくれたエリクソンの数ある理論のうち、「発達理論」というものを発見しちょっとおもしろいなと思いました。

発達理論では、人間が成長していく過程を8つに分け、そのそれぞれで人間はいろんな葛藤と闘っていく。

乳児期:基本的信頼vs不信
早期児童期:自律性vs恥・疑惑
遊戯期:積極性vs罪悪感
学齢期:生産性vs劣等感
青年期:アイデンティティvsアイデンティティ拡散
初期成人期:生殖性vs停滞
成熟期:統合性vs絶望
(統合性とは自己嫌悪に陥ることなく自己の人生を自己の責任と受け入れられるか否か)

ということらしいんですね。

聞くとああなるほどと理解できますが上記の「結婚しない人」は「価値の多様化」を理由に初期成人期の「生殖性」を取るに足らないものと考えだした、と言えるのかも知れませんというかそう聞こえました。

が、僕が思うにその前の「青年期」以前の問題じゃないか。遊戯期に積極性を抑圧され、ある人は学齢期に劣等感を感じ、アイデンティティの拡散をためらってきた。言ってしまえばニートの精神構造と似通っている(と思われている)。社会的な問題が、深いところでつながっている。どうしてもそう思えてしまうのですが…

つまり僕の中では

「別に結婚しない人がいてもいいと思います」=「働くだけがすべてじゃないと思います」

ということになります。これがいいことか悪いことかは全然また別の話、というか時代が判断するのでしょうが、結婚に関して言えば見過ごせない事実があります。


数年前の数字ですが、「なぜ今の人と結婚したのか」という問いに対して男女とも25-30%の人が「この人と一緒にいたかったから」と答え、理由としてはトップになりました。

しかしこれは「理由がない」というように聞こえます。高校生の時分からそう思う人は思う。情の厚い人なら毎回そう思っている。けどそうとしか答えようがない…という無言の声が聞こえてくるようです。大学を卒業し、入社して、彼女できて、さあ次は結婚かな…という風潮が無きにしも非ず。「結婚適齢期」なんていうあいまいな言葉があるのもこのためだと考えます。

しかしこれには重要な意味合いが含まれています。「家系の存続」というものでした。いまでは長男がどうこう、ということは聞く限り少なくもなってきているようですが親のために孫の顔を見せる。これは大きな意味を持っている。家族であることを再認識する。今これが特に重要視されなくなったのは、モンスターペアレントのところでも言ったように「地縁の崩壊」がある気がしますがどうなんでしょう。

やっぱり全部繋がってる気がするんやけど、考えすぎかなあ。


あと、これもテレビで(名前を忘れてしまった…)著名な映画監督が、「今の人はコンプレックスという言葉を使わない、個性という」という言葉を聞いて感銘を受けました。いいか悪いか。難しいことですよこれは。






ああ書いた。今日は書いたなあ。

日本人の根性論

ふと思ったんですけど、
これから何かしようという人に対して、日本では「頑張れ」という言葉がよく使われますよね。

しかしこれが英語圏になると、「Good Luck」だの「Take It Easy」になります。


これからやろうとしてることの大変さが万国共通だと仮定すれば、この2つは国民性の違いからくるのであろうか、そうに違いないと思うわけです。

ゴールデンウィークを利用して、「ミスト」という映画を観ました。

簡単にあらすじを説明すると、町を突然霧が覆い尽くして、その中からモンスターが襲ってくるので人々は町のスーパーの中に避難し、その極限状態での人間模様を描いたものなんですけど最終的には(僕が見た感じでは)「あがいても一緒、何にすがっても死ぬ確率は同じ」という感じでした。

ふらふらっと外に出て行ったおばちゃんが助かってたり、最後まであがいた主人公が結果ともに生き残った人を絶望の果てに殺してしまったりと日本人的な感覚で言うといかにもバッドエンドに聞こえてしまうのですが、これが教育的だったりするんですよね。

「ミスト」の主題は多分もうひとつあって、宗教との付き合い方だと思います。これについてはまだよくわかってないし、話せば長くなると思うので別な機会に考えれたらいいと思います。


ともかく、困難に直面した場合欧米では「はなっからすべて解決できるとは思っていない」というようなスタンス、言い換えればすべてのことは神の思し召し、とでもいうのでしょうか、「頑張れば解決できるはず」という日本人的精神は、一種傲慢にすら映るのかもしれません。

「日本人は勤勉だ」という海外の人の日本人に対する偏見は、こういった姿勢の違いからくるものなのかもしれません。だとしたら、不器用なだけかもしれませんね。

演習:フローとストック

もう先月の話になりますけれども、香川にうどん食いに行きました。
日帰り強行ツアーでありましたので、ほとんどうどん食ってました。
僕は卵丼も食ってました。

僕が旅行に行こうとすると、必ずトラブルが起きます。
車のキーとじ込みや、ガソリン切れた!!ならまだいいのですが、今回神さまが僕に与えた試練は

「給料まだ振り込んでないよ♪」

でした。

ので、暗証番号すら知らないカードでクレジットデビューしました。
いつ引き落とされるのかも知りません。



行きの淡路PA。まだ給料が入ると信じて疑わない僕は従業員に「ATMありますか?」と聞くも「ないよ♪」



香川について初めての食事でがっつり丼に手を伸ばし、顰蹙を買う。
ちなみにこのときの卵丼は、帰り道まで胃袋の中で暴れまくる。



芋アイスフラッシュ☆



夕方頃、微妙に開いた時間を埋めるべくクリリン公園に立ち寄るも、拝観料を取られると知ってまわれ右。
直前に、車を止める時「オーライ」ってゆうてくれた優しいおばちゃんを轢きかける。



道の駅でタケノコニョッキをしている二人。
楽しそうでいいと思います。


結論ETCすごくいいよ。

「甘えの構造」 第4章 後半

「くやむ」と「くやしい」
「くやむ」は「悔いる」が転じたもので用法が微妙に異なる。「悔いる」は自分の非を悔い、「くやむ」はまさにこういった悔いを残したことをくやむ。つまり「悔いる」は己の内に向かい、「くやむ」はより屈折している。「お悔やみ申し上げます」は生前こうしていればよかった等と思いさらにそのような悔いを残した自分を悔いている人に対し、深い同情を示す言葉である。フロイトがメランコリーと愛する者との死別によって起きた悲通を関連付けたのは全く妥当であるが、その共通点に触れていないのは彼が「くやむ」という概念を知らなかったからであろう。親しい者を亡くした場合、一種の罪悪感と同時に、死者かもしくは運命を恨む。これは罪悪感を感じたくないという甘えである。
また日本人はえてして悔しい感情をぢ時にする傾向にあり、敗戦の将に強い親近感を覚えるのはその悔しさを自己のものと同一化し、自分自身のくやしさのカタルシスを図っている。一種の道徳的マゾヒズムである。
日本人における悔しさの概念は、欧米の復讐の精神が正義感に基づいている点では異なる。欧米でも最近ルサンチマンの概念が問題視されて来ているが、彼らはあまり口外したがらない。これは甘えの感情の有無が大きく関係していると思われる。

被害感
日本語としての「被害」という言葉は明治初期に作られたにもかかわらず、日本語の中に被害の具体的事実(「~された」など。派生して「~してくれる」、「~してあげる」など)が多いのでなくてはならない言葉になっている。「邪魔される」という言葉は幼児が母親の注意を自分から遠ざける者に対して感じる感情であり、甘えるものが常に受身的依存的姿勢をとっているからである。それだけに甘える者は傷つきやすく干渉されやすい。
被害妄想を抱く者は、甘えの心理が病的に変化した者と見ることができるが、それは彼らがしばしば社会的または家庭的に孤立していることが証拠である。それは育った環境によると思われるが、それ自体彼らが先天的にあまりにも過敏であることが原因で、成人してからも自分自身を自己と認識できない。若年層に多くみられるが、大人の被害妄想はもっと具体的で、執念的な(妥協しない)性格の持ち主であることが多い。このような人は、幼い頃甘えを媒介として人と共感関係をもたなかった可能性がある

「自分がない」
「自分がない」の「自分」とは英語でいう再帰代名詞であり、自己を内省的に表す。少なくとも欧米にこの表現はない。小さい子供を例にとった場合、彼はすでに一人称を用いるが自己を反省的にとらえてはいないことから、一人称を使う場合でも日本の場合は自我を意識していない場合がありうる。英語では日常的に一人称の使用が強制されるので、「自分がない」ことを意識する機会がない。「自分」は「集団」に対して用いられ、個人が集団に埋没するか、集団の物理的強制よりも属していたい願望が強ければ自分がなくなる。しかし彼はわがままを通し孤立することも自分を失うことと意識するので、やむなく一時自己を滅却し、集団に所属するという葛藤を抱える。これは義理人情と通じるところがある。

「甘えの構造」 第4章 前半

とらわれ
森田正馬が精神患者に働く作用につけた名前。ある感覚に注意を集中すればその感覚に鋭敏になり、注意をさらに固着させ、感覚と注意があいまってさらにその感覚を強大にする。この悪循環が起こるもともとの原因はヒポコンドリー性気分があるためである。このヒポコンドリー性気分について森田は疾病ないし死への恐怖と片づけたが、筆者が思うに甘えたくとも甘えられない環境で育ってきたことによる潜在的な不安というものである。最近になって「とらわれ」を研究する欧米の学者も出てきているが、「甘え」に掘り下げる者は現れていない。

対人恐怖
一般人に理解されにくい精神学用語において「対人恐怖」がほぼ唯一の例外となっているのは、その言葉が日本人の患者によって作られたからであり、日本人の歴史的社会的環境と深くかかわっている。乳幼児のする人見知りとは異なり、成人期に過度に行う人見知りは時期遅れの発達であり、これがさらに病的になると対人恐怖症となる。人見知りは母親への甘えと同時に起こり、成人期になっても同じ理由が考えられる。それとは別に、テニエスによれば今の社会がゲマインシャフトからゲゼルシャフトhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3(wikipedeia)へ移行しているため甘えるルールが見つけられないという理由がある。近代社会においては西洋化の影響を受け恥の感覚が受け入れられにくくなっており、いたずらに内向化する人間が増えている。

気が済まない
気がすまないと感じる人はある程度自分の精神の動きを統一的に自覚しており、甘えの充満する日本の社会の中で最も自律的なタイプであるが、絶えず気が済まなくて悩むと病的である。

同性愛的感情
ここでいう同性愛とは友情の基調になりうる感情的結びつきが異性愛に優先する場合のことである。例えば米国では、結婚前はもちろん結婚後も異性間の付き合いがあることはあるが、建前としていつも夫婦ないし恋人間の交際が優先し、そうでもないとすぐに同性愛を疑われることを恐れるが、日本にそういう風習はない。しかし何故潜在的によくないことと認識されるかといえばこの感情が本来甘えに起因するもので、子が親に、生徒が先生にするように至極当然のことであるにもかかわらずとても不安定なものであるからである。

2009年5月3日日曜日

まーた始まった

クローン研究で有名なザボス医師が再び「おれ、クローン人間作るから」と言い出したことで、クローン人間に関する問題意識が喚起されようとしています。

クローンについては、何年か前にドリーという羊を作ってみたが死んでしまったり、受胎そのものがうまくいかないなど、なんとなく不気味かつ神秘的な感じがするのですが、それとは別に

“日本におけるクローン技術規制法のように、世界各国でヒトクローンを禁止する枠組みができつつある。理由としては、先ほど出たような寿命が短いというような問題の他に、外見の全く一緒の人達が何人もいると社会制度上大変なことになる、優秀な人間のクローンをたくさん作り優秀な人間だけの軍隊を作る、独裁者がクローンで影武者を立てる・クローン人間の殺し合いなどを娯楽に供する(手塚治虫「火の鳥・生命編」)といった人道上許されないことが起こるから、ということが挙げられるが、上記のように根本的に不可能なものがある。また、「優秀な人間だけの軍隊・野球チーム・サッカーチーム」などという存在は、生まれてきたクローン人間に強制的に軍人やスポーツ選手の道を歩ませない限り不可能であるため、「クローン人間に普通の人間並みの人権を認めない」ということになり人権上問題があるばかりか、ある意味奴隷制度にもつながりかねないものである
このような禁止措置はES細胞、iPS細胞などの生命科学の発展の障害となる可能性があり、考え方の対立が問題となっている。”(wikipediaより抜粋)


というような問題があり、過去の歴史を見ても「人間の科学的欲求は、理性では抑えきれないだろう」という諦めがより問題を難しくしているのです。



このことについて、人間の理性をほぼ0に換算して最悪のシナリオを遊び半分で想像してみました。

僕が個人的に最もあればいいと思うのはドラゴンボールでいうところの「瞬間移動」の能力です。アニメの中で彼らはまさに亜空間の中を一瞬で移動しているように見受けられますが、「空間を支配」というのはやや現実的ではないのでここでクローン人間を用いてみます。

まず、現在地で自分の姿(すでにクローン)を何かで照射し、その映像の情報を移動したい場所で展開します。もといた場所のクローンは照射光か何かによって焼却され、この世には一人の人間しか存在していません。

「そんな非人道的なことが起こりうるはずがない」とこの話をした友人は僕のこの冗談を片づけてくれましたが、果たしてそうでしょうか。クローン問題における人間の倫理は、今のところ人類最後ともいえる理性だと思うんですが、どうも「興味半分で研究したらできた」、「じゃあ人間に応用してみよう」、「大丈夫、実際にクローン人間なんか作ったりせんから」、「でもな、子供亡くした親御さんの気持ちもわかるし」とどうもなし崩し的に進んできてしまってる印象があります。


これがいったいどのタイミングで歯止めがかかるのか?予想がつかないというよりかは、道徳がじりじりと土俵際へ押しやられて、そのうち寄り切られるような、そんな悲観的な展望を抱かずにはいられないのです。


しかしあれですね。「単細胞生物の細胞分裂は当然クローン」というのは考えたら確かになるほどそうですが、ちょっと衝撃ですね。できる、できないの違いって一体何なんでしょうね。あと、弟っていうのはニアリーイコールではないのか?

2009年5月1日金曜日

嗜好品投機の行方

米クライスラー、破産法申請を発表 フィアットと提携合意
 
【ニューヨーク=米州総局】米自動車大手のクライスラーは30日、米連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用を、ニューヨーク市の破産裁判所に申請したと発表した。破産法手続きは30―60日での短期決着を目指す。同時に、イタリア自動車大手のフィアットと提携することで合意したことも明らかにした。米政府は追加融資などでクライスラーを全面支援する方針を表明している



いずれは、という憶測が現実のものとなっています。
僕自身は(将来的にも)自家用車として高級車をもつ必要性を感じないので車業界の不況というのは一種の嗜好品業界の不況で、景気が悪くなれば真っ先に影響を受けるものと思っています。もちろんクライスラーが高級車ばっかり作っているわけではないですが、僕はこの「ステータスとして高級車を所有する」という風潮は、いずれなくなると思っています

それを予感させるニュースが、これです。


印タタ自動車、世界最安車「ナノ」発表

 インドの自動車大手タタ自動車は23日、世界最安価格の小型車「ナノ」を正式発表した。4月9日からインド国内で予約受付を開始し、7月頃から購入者の手に渡る予定である。初回は10万台限定で、2010年をめどに欧州、そして米国での販売も目指すという。 「ナノ」は、エアコンやドアミラー等を搭載しない最安モデルで約10万ルピー(約20万円)。型は日本の軽自動車より一回り小さく、全長3.1m、高さ1.6m。排気量は624ccで、最高時速は105キロとなっている。燃費はリッター23.6キロだ。 同社は当初、年間50万台の販売を予定していたが、工場建設が予定通りに進まず、今年末までに年間25万台の生産体制を作るとしている(IBtimes 2009/3/24)


この車は確かカーボンかなんかでできてていらんところを極力削ったりしてたと思いますが、まあ基本的に事故さえ起こさなければ問題ないはずなので乗る分には全然いいですよね。「事故しても怪我しないように」っていう車作りは、危険運転を助長してるんじゃなかろうかという憶測もあります。


僕の場合は世の中もっとお金使うことあるので維持費もかかるし何が楽しいんだかと思うんですが、車いじりが好きな人は好きやししばらくは車バブルは続くのかもしれません。しかし長い目で見たときに、「本当に必要なもの」を人類が吟味した結果、そして車の価値の相対的な低下によって必要性に駆られることは少なくなるでしょう。できるだけ早くそうなってもらいたいものですが。