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2009年1月29日木曜日

「甘えの構造」 2章 後半


日本人にとっての「内」「外」の生活空間は、3つの同心円からなる。「外」の人間に対して無遠慮な態度をとったとしても、潜在的には脅威を感じているので、人を食ったような態度で威嚇しようとしているとも考えられる。それが成功しない場合は、相手を取り込もうとする。この「同一化」や「摂取」は、甘えの一種である。

日本は歴史的に外の文化を同一化することで己のものとしてきた。見知らぬ他人の世界に対してはえてして無関心を装うが、本当に無関心の結果というわけではない。無視できると判断した世界をのぞいては注意を向けている。無視できないと分かると同一化を図る。


ルース・ベネディクトの「罪の文化」と「恥の文化」は指摘としては確かに鋭いものがある。しかし彼女は2つの文化がまったく無関係としていることや前者が内面的な行動規範を重んじ、後者は外面的な行動規範を重んじる点で前者のほうが優れていると述べた点で誤っている。これはベネディクト自身が西洋的な価値観から逸脱し損ねた結果であると思われる。


西洋人は罪悪感を個人の内面の問題と捉えるが、日本人は自分の属する集団に対する裏切りと捉える。西洋人にも似たような感覚はあったろうが、キリスト教に教化された結果、その対象が神になり、近年ではその神も蒸発して個人の意識が問題視されることになる。彼らは超自我(精神の発達過程で両親その他重要な人物のしつけや教えが内面化されたもの)に背くことで罪悪感を覚えるが、超自我は精神構造の一部で本質的には(他人の影響を受けているという点で)非個人的なものであるため、強く意識されることがない。


日本人の罪悪感は人間関係の関数といえる。相手が自分に近いほど裏切りによる罪悪感は増し、逆も然りである。裏切りが関係の断絶につながりやすい日本人の人間関係は、してはいけないことをしたとき「すまない」(甘えの派生語)と思い謝罪行為に直結する。この点は罪悪感の原型といえ、ベネディクトが見落とした点である。


西洋人から見た日本人の「心からの侘び」には魔術的な力がある。このことは「日本人には罪の意識が乏しい」という俗説につながる。逆に西洋人は皮肉なことに罪の文化の中で生きているがゆえに謝罪したがらない。


罪の感覚が自己の中に発し謝罪という形で外に向かうとすると、恥の感覚は外の眼を意識することで内に向かう。しかしこの感覚は、無関係ではなくむしろ密接に結びついている。それぞれが意識される領域も重なり合う


日本人に恥の意識が強いというのは、日本人が海外旅行に行ったとき自由に振舞えないからという理由を当てることがあるが、そこには西洋人に対する劣等感が作用している。最近では日本の声望が上がってきたため集団で諸外国の顰蹙を買う行動に走ることも多いようであるが、集団だと恥ずかしくないというのは日本人の最大の特徴であるといえる。集団を離れ単独行動をとるということは、日本人にとっては困難である。


恥の文化の日本人のほうが謝罪に熱心である。「すまない」という言葉は相手の好意を失わないための弁解である。


天皇はある意味周囲にまったく依存しているが、身分上は周囲が天皇に従属している。この天皇の幼児的依存が尊重されているという事実は、幼児や老人が最大の自由を許されているのに似通っている。伊藤博文によって作られた憲法の中で、天皇はキリスト教の精神的代用品とされ、ともすれば閉鎖的なサークルに分割されやすい日本人を天皇の赤子(せきし)とすることで包摂した。「幼児的依存=甘え」の尊重は、敗戦と同時に懐疑の眼を以って見られることになる。これはイデオロギーとしての天皇制の崩壊である。


崩壊したイデオロギーは経済成長等によって復古し、いくつかの社会的慣習によって支えられている。敬語、祖先崇拝、祭りなどは、崩壊したはずのイデオロギーを支え、日本人各自は内心の甘えを禁じえないことを表している。

2009年1月28日水曜日

「甘えの構造」 2章 前半

「甘え」が本来人間一般に共通する感情であるにもかかわらず、外国の観念として存在しないのは、それだけ日本人にとって身近なものであると同時に、日本人の精神構造の少なくない部分を占めるといってよい。(中根千枝著『タテ社会の人間関係』)

また感情を表す多くの日本語の中には、甘えの存在を裏打ちするものがある。

義理と人情については従来学者が多く文献を残してきている。義理と人情は対立概念ではない。2つの間には有機的な関係が存し、義理はいわば人為的に人情を持ち込んだ関係である。この考えからすると、義理と人情が対立するかのごとく考えたベネディクト(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88)の見解は誤りである。

「恩」は、義理が発生する契機になる。何人かの相手に恩をこうむり果たすべき義理の間で葛藤するのは、どの相手からも好意を引きたいという甘えが存在するからである

「他人」という言葉は、「自分以外のほかの人」を意味する「他者」とはニュアンスとして異なる。日本では、絆を分かちがたい親子関係を理想的なものとみなし、それ以外の関係をすべてこの物差しで測る傾向がある。

親子だけは無条件に他人ではなく、それ以外の関係は親子関係から遠ざかるに従って他人の程度を増すという性質は、「甘え」という語の用法と似通っている。人情の大きく働く親子関係では甘えが働き、他人の程度を増せば甘えも働かない。「遠慮」も同じである。「できれば遠慮しないに越したことはない」という心情は、遠慮のない親子関係を理想化しているからである。

日本人は「内」と「外」を区別する傾向がある。内弁慶であることや、自分の住んでいるところでは人目をはばかり見知らぬ土地では傍若無人の振る舞いをするなどといったことは好ましくないとみなされており、この2種類の人格はそれぞれ内外の捉え方が異なっている。日本人は内と外を区別することを自然と考えているので、矛盾や偽善の感情に駆られる事はない。これが起こるのは、内外の区別が自分の中で曖昧になったときである。

日本人にとっての「内」とは、主として個人の属する集団をさし、英語の「private」のように個人自体をさすことはない。日本では集団から独立して個人のプライベートが認められておらず、従って人格の統合(同じところを探すという意味か?)もあまり認められない

日本人には個人の属する集団を超越したパブリックの精神が乏しい。従来閥が政治的勢力を形成してきたのも同じ理由であろう。欧米にももちろんその歴史はあるが、日本で特に加速したのは欧米のようにこれをチェックする個人の自由の精神がないからである。日本においてパブリックの精神は、皇室が担っていた。戦後「おおやけ」の意味が皇室から分離されてからは西洋のパブリック精神が説かれているが、日本人の精神の奥底には未だしっかり根付いている。

「甘えの構造」要約 序文~1章

「甘え」は甘える本人が相手の好意をわかっている場合に存在し、またその本人は自分が甘えていることに対して無自覚であることも多い

「甘え」という概念が土居氏(著者)によって明文化されたのはおよそ30年前であり、その際「甘え」の定義に含まれなかった「甘ったれ」「甘やかし」等が現在では顕在化してきている。しかしこれらの新しい概念は、行動の主体が無自覚という点で従来の「甘え」の定義とは根本的に異なる。

新しい甘えは現在の家庭問題やいじめといった社会問題を端的に象徴しているが、少なくとも昭和一桁のころは子供には家庭という逃げ道があったため、それらを苦に自殺するような者はいなかった。また学校の権威も通用していた



相手の好意に気づいて甘える(以下「甘える」)は日本語独特の概念であって、「Help yourself」主義の海外には見られない。「甘え」だけでなく、それに派生する語(すねる、ひがむ、こだわる、すまない)等も同様である。またこの日本独自の概念は、国語によってのみ理解され、外国語で行うどの心理学上のテストにもその微妙な心情は一切投影されない。

したがって神経学者の森田正馬氏によって考案された森田学説http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E7%99%82%E6%B3%95)は、日本独自のものである。

「甘え」に対抗する言葉として、「自分がある」という言葉を当てることができる。「自分がない」人は甘えによって引きずられる。

「甘え」の感情はおそらく精神分析理論上のエディプス複合期(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%97%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9)以前に形成される。よってその後の精神発達に大きな影響を及ぼすものと考えられる。フロイトもこの点を記載してはいるが、ナルチスムス(うぬぼれ,自己陶酔,自己愛.自分の容姿に性的興奮をおぼえる状態)の導入後、確たる定義はなされていない。これは欧米語にこれに相当する概念(言語)が存在しないことが理由と考えられる。

日本における「甘え」は第二次世界大戦後、表面化してきたと考えられる。これは敗戦による天皇制と家族制度の撤廃が、個人の確立に結びつかず、精神的社会的に混乱をきたしたからである

アメリカでは「甘え」概念に対する想像が貧弱であることから、精神科の患者に対して恐ろしく鈍感である。この理由のひとつとして、17世紀に「神は自らを助ける者を助く」という言葉がポピュラーになったことが挙げられる。

日本人の甘えの起源は義理人情からきている。天皇制は、これを踏まえて精神的支柱を階級を超えて設置したという意味で、近代化への大きな試みであった。



以下雑記

社会問題と甘え
天皇制の意義

2009年1月27日火曜日

名言集

『人間に自由を与えると、そこにはしばしば混乱が生じる。しかし同時にそこにはとてつもない想像力が生まれる。』(ジミー・ウェールズ)


『私は説明しない。探求するのみ。』(マクルーハン)


『財産を失うと、小さなものを失う。信頼を失うと、大きなものを失う。しかし勇気を失うと、全てを失う。』(J・F・ケネディ)


『しなかったことの話など、時間の無駄だ』(アーロンさん)


『ある事実を理解しないことによって給与を得ている場合、その事実を理解させるのは難しい』(アプトン・シンクレア)

『勝つこととは、負けを恐れないことを意味する』(フラン・ターケンソン NFL)

『神は人間に耳を2つ与えたが、口は1つしか与えなかった』(カルロス・ゴーン)

『失ったものを数えるな。残ったものを数えよ』(ベニー・グッドマン)

2009年1月18日日曜日

「一度0に戻す」勇気

阪神大震災から14年が経ちました。

僕の祖父の家は淡路島にあり、(震源の北淡町から車で20分ほど南)周りの家は跡形もなくなってたのに不幸中の幸いで残ってました。特に傾くとかもなく。幸い亡くなった人はそのあたりにはいなかったそうです。


あの悲惨な光景を目の当たりにして、倒壊した家とそうでない家と、どう違うのかというのは、頭の片隅に疑問としてありませんでした。おそらく木造かレンガ造りか、揺れのひどい方向にたまたま立ってたかそうでないか、もし冷静であったとしてもそんなことを思ってたと思います。


地震のメカニズムをかじるにつれ、いろいろ恐ろしいこともわかってきたようです。

10年以内に大きい地震がくるかもとか、大阪は淀川の堆積地であるためもし地震が起きれば液状化がひどくて…とか、一番怖いと思ったのが阪神大震災の教訓を生かして免震構造を施したにもかかわらず、効果の少ないタイプの地震があり、最近の地震の傾向はそういったものが見受けられるということです。こないだの新潟県中越地震はその例だそうです。


地震には地震動の触れ幅によって2種類に分けられるらしく、
阪神大震災…短周期地震動
新潟県中越地震…長周期地震動
だそうです。

被害に違いが出るらしくて、長周期の方が高層建築の方に被害が大きいらしいですね。

阪神大震災がもう一度起こっても大丈夫なように免震構造を施しても、効果がない、というのが実験の結果であがってるらしいですね。

僕はよくわからないんですが、免震構造って建物の一番下に施すんじゃないんですか?
ってことは、一回建て直してるってことですよね?

被害を最小限に抑えるための努力を14年もしてきて、効果がないかもしれないというのは本当にやりきれない感じがしますね…



大阪府の橋本知事が、定額給付金の所得制限を低く設定して、学校の耐震工事に回したいという独自案を発表したとき、やけに突然出てきた話だったので首をかしげた記憶がありますが、やりたくてもできなかったんですね…


地震の全容解明というのは、今の時点で予知がほぼ不可能ということもあり、結構時間のかかることではあるんだと思いますが、それに人生を捧げてる人たちには頭が下がります。
地味でも、尊敬されるべき仕事だと思います。

参考:wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87

2009年1月15日木曜日

万を持すと長くなる

第二次補正予算案が衆議院を通過し、いよいよ定額給付金が支給される公算が大きくなってきました。

給付金が経済的にどういった意味をなすのか、本当のところよくわかりません。
ただ、今はデフレ傾向にあるので貨幣の流通量を増やしてインフレ化を導き相殺する、という意味もなくはありません。


よく言われていますが、このお金はおそらく春に行われる選挙のためのばらまきであってどうせ2兆円ぶちこむなら他の手段を探したほうが景気のためにはいい、という議論があります。
(たとえば雇用対策に使って失業率を減らす、など。)

しかし具体的にどんな政策が給付金を上回る効果を導き出せるか、ちゃんとした答えを導けないのが経済学の頼りないところです。

テレビやらニュースを見てても、「よくわからんが、給付金よりいい政策がもっとありそうだ」というものすごく漠然とした話しかでてこないので、国民的にも何となくもやもやした感じを拭い去れません。

そもそも「選挙のために家計にばら撒く2兆円」自体は、即悪というわけではないというジレンマがあります。これを責めたところでだからどうしたと言われて終わりです。問題は、ばら撒いて国民の機嫌をとらないといけなくなったまでの途中の段階で何をしてきたかということを、外から眺めるしかない我々がどれだけ評価できるかです。


給付金に対する僕の立場は、「別に構わない、しかしこれで年金やら将来の増税やらなんやら、帳消しにして選挙に臨めると思ったら大間違い」というもので、一人でも多い方が賛同していただけることを祈っています。例によって選挙には行きませんが。



雇用問題に関して、日本の企業がどう取り組むかというのは今後間違いなく一番大きい問題でしょう。
というか、それが一番早いと思います。

日本企業は内部留保(営利から出資者への配当を除いた剰余、会社が好きに使っていい資産)が多いといわれており、これがこないだまであったといわれる好景気を僕らが実感できない理由なんですが、本来これは社員への給料やなんやらに還元していいはずの金なんで、これを首切られた派遣労働者に回す、具体的には正社員へ登用するなどの努力に使われてもいいものです。

ぽつぽつそういう会社も出てきてはいるようですが、全体のことを考えるとまず足りません。


ここでひとつ問題だと思うのは、派遣労働者が不景気下でどんどん首を切られていくことに対して、「非人道的」という言葉がよく使われますが、逆に言うとそうとしか言い返せないという切ない事情があると思います。

というのは、不景気で派遣労働者が首を切られたところで、「派遣とはそもそもそういうもの」といわれればおしまいだからです。これは本当にもっともな話で、鼠算式に増えていくフリーターを、少しでも社会的な生産方式に組み入れようとして目をつけた制度であるからで、別に生涯に渡って生活を保障してくれるものではないからです。

正社員なら失業保険か何かで会社がそれなりに守ってもくれるでしょうが、派遣労働者は別に派遣先の企業の社員でもなければ派遣した会社の社員でもない。どっちに見捨てられようが、文句がいえないという非常にグレーゾーンの商売です。これに対して泣き言をいう人に対しては、「何を今更」という非常に現実的な目が向けられることになります。

目下の派遣に関する問題は、「期限途中の解雇」で、「契約書を交わしてないのは有効かどうか」ということになりそうです



内部留保が多い、という(今のところまだ神話)話は、日本がまだある意味救われていることを意味します。本当に金がないわけではない。平成の長い不況へのトラウマから社員に営利を還元しないでいたらまたすぐ不景気になって、ラッキー金が余ってる、って感じ(繰り返すが神話)。

100年に一度といわれてるし、ここらで一肌脱げばいいと思うのですが、昔から日本にはそんな体質はないので期待薄です。会社は社長のものという根強い考え方があり、かつて村上ファンドの村上さんが特異に見えたのはこのせいです。

株もそうですが、企業戦略の成功はいまやどこもかしこもが考えに考え抜いた戦略を打つがために相手の失敗をつくことでしか大きな成果を挙げられません。派遣労働者救済にかかるコストを「失敗」とみなすか、それとも企業イメージとして長い目で見たときに「失敗」とみなすことを失敗と捉えるか、「誰か先やれよ」状態に陥ってるような気もします。

もし内部留保を社会のために使うことを拒み、己の利益を追求し続けた結果不景気が長引くとすれば、これから先「会社は誰のものか」という議論が再燃するでしょう。


数年前CSR(企業の社会的責任)という言葉がちょっと流行しました。
内部留保を何に役立てるかということとも似てきますが、環境への貢献が流行りだしたのはこの頃です。企業イメージを上げるための企業広告という視点からいうと、いろんな企業がありすぎて、ランク付けするために持ち出した概念でもあります。環境問題が顕在化してきたというのも事実。

環境問題に対しては「譲り合い」の結果おそるおそる手を出してきたことを考えれば、おそらく人を大事にするという点でも手を付け出すんじゃないかと思います。

けど迅速にそれを進めるためには、マスコミの働きが不可欠。
今全然声が小さいような気がしますが、なんででしょう?気のせいでしょうか?


どっかの放送局で、お金で星が買えればいいのにねって言っちゃって相撲協会から叩かれた人がいましたが、あれぐらいずばっと言えないもんですかね?

2009年1月11日日曜日

献血の非効率

僕がよく利用する駅の前で、「献血にご協力お願いします」の人がいます。

この季節になると増えるのかどうか知りませんが、けっこうあっちこっちで見かけます。


あれって非効率じゃないですか?

僕の経験上、データを挙げると

例1・A駅…

   人件10人、10:00-20:00

例2・B駅…

   人件8人、10:00-19:00

です。

1日に必要な献血数は、全国で820人分。血の保存はしてないとうたっているので、その日か次の日には使われていると考えます

そうすると1日の人件費は、その日の輸血等でかかった医療費でまかなわれることになります。
時給800円として人件費を計算して(サンプル2つですが…)、

A:800×10(人)×10(h)=80000円
B:800×8(人)×9(h)=72000円
(実際に針を刺す人の時給は常識的にもうちょっと高いではあろうが血を抜く際には避けて通れない経費であるため省く)


車かなんか動員してる場合はガソリン代やら電気代やらもろもろかかるので(野菜ジュース代も)、全部ひっくるめて平均75000円とします。


820人分の血を抜こうと思えば、おそらく1箇所で1人抜ければまかなえる。つまり、1人分の血を抜くために75000円の経費を使っていることになります。


計算があっていれば、これは明らかに不経済です。
これがまかり通る背景には、医療関係者が金持ってるということのほかに、なかなか応じてくれる人がいないのではないかという憶測があります。


なぜ応じる人が少ないか。

献血というものの性質上、怖さがあったりで好んでする人は少ない。
それが献血者を募ろうと、目立つ場所ですればするほど、「他に誰かやるやろう」っていう心理を生むことになるんじゃないでしょうか。
名前忘れましたが、そんな心理学の言葉があったはずです。


そこで、新しい献血の形を編み出しました。

1:まず、決まった場所でしない。

2:1日2人先着制!!

3:その2人に、2万円支給!!

4:人件は1箇所2人

5:全国500箇所限定

おそらくこれでも安定した血の供給はあるはずです。
人件に関しても、たぶん通常業務のさなかにできるので、下手なバイトを雇わなくてもよい。
求人のコストもない。


献血がボランティアとかもっともらしく聞こえますが、回りまわってバイトの給料になってる事実を考えれば、こっちのほうがよっぽどまっすぐじゃないですか?

必要な血液型に関しては、各所で調整していただきましょう。

そんな気がした2009

京都の八坂神社に、初詣に行きました。

もはや10日にもなると、初詣でもないんですが、僕の一年は神社にお参りに行かないと始まりません。
神社には「正しい参り方」があるそうです。金沢行ったとき、通りすがりのおばちゃんが懇切丁寧教えてくれましたが、忘れてしまいました…


ひしゃくの水で手を洗うのは、寒すぎてやめときました。






で、おみくじ引いたら大吉でした。これで2年連続です。厄年を乗り越えた今年、何かいいことがあるのかもしれませんね。




ところで、河原町の寺町通りにあるRANDOM WALKという本屋が閉店します。
デザインや建築の、マニアックな本を主に扱っている店です。

店も小さくて狭かったし、不況やなんやらできつかったのかもしれません。
美しいものをただ眺めるのが好きな僕は、買うでもなくふらっとはいって時間を潰した事もあるので申し訳ない感じです。閉店セールをやりだした途端客が来るっていうのは店員さんにとっては皮肉な話でしょう。

お金ができたら、今度は貢献したいと思います。


ちなみに1月15日まで、閉店セールやってます。

2009年1月4日日曜日

母校詣で

4月から東京で働く友人と姫路に出てきました。

まだまだ初詣の参拝客などで商店街はごった返し、最近駅前にオープンしたというプリエ姫路がバーゲンをはじめたということも手伝ってか着いた途端僕のテンションは駄々下がりでした。


人ごみを避け歩いた商店街は僕らが高校時代通ったそれと比べてはるかに若々しく、華やかに変貌を遂げつつあります。まったくありがたい試みです。ただ、残念ながら男性向けの店舗が充実してきたとは言い難いところもあります。

ひどい話で、プリエ姫路にいたっては100パーセント女性向けというわかりやすさ


母校の体育館でドッジボールを済ませて帰りに寄った本屋は、移転していい感じにまとまってました。
以前は無駄に横に長く、何がどこにあるのかわかりにくいところがあったんですが、解消された風に見えました。

しかし、置いてある商品数が少なくなった気がするのは気のせいでしょうか…
棚が高くなったから、そう思えるだけかな?




ネットでの情報収集が無料でできるようになってきた今、本屋のニーズというのは低下の一途にあります。個人経営の小さな本屋は苦しいと言われています。
情報に関してはもはや本当に必要な、または本当に好きなものにしかお金が使えないようになってきているようです。そこで、意外に元気を取り戻してきているのが雑誌だそうです。

ゴルフとか釣りとか、まあ人にはいろいろ趣味がありますけれども本当に好きでかつマニアックなものにはお金が使う。雑誌の収集家というのも存在するぐらいです。

日本は海外に比べて雑誌過多と言われますが、これからの本屋と言うのはこうした何かのジャンルに特化したものか、そうでなければ大型店舗、または駅前にある話題書を集めた本屋、こうしたものに絞られそうです。


僕の予想では最初に挙げた「特化型書店」は今後ネットを通して副業として成り立っていくでしょう
なぜなら、種類がありすぎて探すのがめんどくさいからです。そして、それだけで経営を成立させるほどのニーズが、今のところあるとは言い難いというのもあります。特化型のブランドポリシーを浸透させることが先だと考えます。


よく「趣味がない」とぼやく人もいますが、本屋っていうのは本当に便利なもので、行けば何か気になることがあると思います。もしこれでも駄目なら、もう足りないのは情報ではなく、「何かをしようという変化の心」ということにでもなるでしょうか。

2009年1月2日金曜日

謹賀新年


あけましておめでとうございます。


今年もよろしくお願いいたします。





年が新しくなったというのにいい話を聞きません…


近くでタクシー運転手が刺されたり、景気悪いことが重なり世の中どんどん暗くなってるような感じですので身の回りだけでも気つけなあかんなあと思ってます。



しかしタクシーが狙われるのは今回が初めてではないのに、相変わらず被害にあうのはやっぱり客と運転手だけの密室に、客から非常に近い位置に現金がおかれてるという非常に原始的な事実があると思います。



タクシーに乗る際は電車のように切符制か電子マネーにしたらどうなのかと思います。




僕自身も外を歩くとき、財布をすぐ取られない位置に持っとくとか、大金を持ち歩かないという対策をとってますが、有無を言わさず殺されてしまったら話になりません。


そしてなにより怖いのが、今まで人殺しとは全く縁のないところからの犯罪なので、何が起こるかわからないというところです。




僕は今年厄年から抜けたので、事態の好転をもくろんでいます。


今年は変化の多い一年にしたいと思います!