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トータルライフコンサルタント 相続診断士

2009年1月28日水曜日

「甘えの構造」 2章 前半

「甘え」が本来人間一般に共通する感情であるにもかかわらず、外国の観念として存在しないのは、それだけ日本人にとって身近なものであると同時に、日本人の精神構造の少なくない部分を占めるといってよい。(中根千枝著『タテ社会の人間関係』)

また感情を表す多くの日本語の中には、甘えの存在を裏打ちするものがある。

義理と人情については従来学者が多く文献を残してきている。義理と人情は対立概念ではない。2つの間には有機的な関係が存し、義理はいわば人為的に人情を持ち込んだ関係である。この考えからすると、義理と人情が対立するかのごとく考えたベネディクト(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88)の見解は誤りである。

「恩」は、義理が発生する契機になる。何人かの相手に恩をこうむり果たすべき義理の間で葛藤するのは、どの相手からも好意を引きたいという甘えが存在するからである

「他人」という言葉は、「自分以外のほかの人」を意味する「他者」とはニュアンスとして異なる。日本では、絆を分かちがたい親子関係を理想的なものとみなし、それ以外の関係をすべてこの物差しで測る傾向がある。

親子だけは無条件に他人ではなく、それ以外の関係は親子関係から遠ざかるに従って他人の程度を増すという性質は、「甘え」という語の用法と似通っている。人情の大きく働く親子関係では甘えが働き、他人の程度を増せば甘えも働かない。「遠慮」も同じである。「できれば遠慮しないに越したことはない」という心情は、遠慮のない親子関係を理想化しているからである。

日本人は「内」と「外」を区別する傾向がある。内弁慶であることや、自分の住んでいるところでは人目をはばかり見知らぬ土地では傍若無人の振る舞いをするなどといったことは好ましくないとみなされており、この2種類の人格はそれぞれ内外の捉え方が異なっている。日本人は内と外を区別することを自然と考えているので、矛盾や偽善の感情に駆られる事はない。これが起こるのは、内外の区別が自分の中で曖昧になったときである。

日本人にとっての「内」とは、主として個人の属する集団をさし、英語の「private」のように個人自体をさすことはない。日本では集団から独立して個人のプライベートが認められておらず、従って人格の統合(同じところを探すという意味か?)もあまり認められない

日本人には個人の属する集団を超越したパブリックの精神が乏しい。従来閥が政治的勢力を形成してきたのも同じ理由であろう。欧米にももちろんその歴史はあるが、日本で特に加速したのは欧米のようにこれをチェックする個人の自由の精神がないからである。日本においてパブリックの精神は、皇室が担っていた。戦後「おおやけ」の意味が皇室から分離されてからは西洋のパブリック精神が説かれているが、日本人の精神の奥底には未だしっかり根付いている。

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