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トータルライフコンサルタント 相続診断士

2009年5月8日金曜日

「甘えの構造」 第4章 後半

「くやむ」と「くやしい」
「くやむ」は「悔いる」が転じたもので用法が微妙に異なる。「悔いる」は自分の非を悔い、「くやむ」はまさにこういった悔いを残したことをくやむ。つまり「悔いる」は己の内に向かい、「くやむ」はより屈折している。「お悔やみ申し上げます」は生前こうしていればよかった等と思いさらにそのような悔いを残した自分を悔いている人に対し、深い同情を示す言葉である。フロイトがメランコリーと愛する者との死別によって起きた悲通を関連付けたのは全く妥当であるが、その共通点に触れていないのは彼が「くやむ」という概念を知らなかったからであろう。親しい者を亡くした場合、一種の罪悪感と同時に、死者かもしくは運命を恨む。これは罪悪感を感じたくないという甘えである。
また日本人はえてして悔しい感情をぢ時にする傾向にあり、敗戦の将に強い親近感を覚えるのはその悔しさを自己のものと同一化し、自分自身のくやしさのカタルシスを図っている。一種の道徳的マゾヒズムである。
日本人における悔しさの概念は、欧米の復讐の精神が正義感に基づいている点では異なる。欧米でも最近ルサンチマンの概念が問題視されて来ているが、彼らはあまり口外したがらない。これは甘えの感情の有無が大きく関係していると思われる。

被害感
日本語としての「被害」という言葉は明治初期に作られたにもかかわらず、日本語の中に被害の具体的事実(「~された」など。派生して「~してくれる」、「~してあげる」など)が多いのでなくてはならない言葉になっている。「邪魔される」という言葉は幼児が母親の注意を自分から遠ざける者に対して感じる感情であり、甘えるものが常に受身的依存的姿勢をとっているからである。それだけに甘える者は傷つきやすく干渉されやすい。
被害妄想を抱く者は、甘えの心理が病的に変化した者と見ることができるが、それは彼らがしばしば社会的または家庭的に孤立していることが証拠である。それは育った環境によると思われるが、それ自体彼らが先天的にあまりにも過敏であることが原因で、成人してからも自分自身を自己と認識できない。若年層に多くみられるが、大人の被害妄想はもっと具体的で、執念的な(妥協しない)性格の持ち主であることが多い。このような人は、幼い頃甘えを媒介として人と共感関係をもたなかった可能性がある

「自分がない」
「自分がない」の「自分」とは英語でいう再帰代名詞であり、自己を内省的に表す。少なくとも欧米にこの表現はない。小さい子供を例にとった場合、彼はすでに一人称を用いるが自己を反省的にとらえてはいないことから、一人称を使う場合でも日本の場合は自我を意識していない場合がありうる。英語では日常的に一人称の使用が強制されるので、「自分がない」ことを意識する機会がない。「自分」は「集団」に対して用いられ、個人が集団に埋没するか、集団の物理的強制よりも属していたい願望が強ければ自分がなくなる。しかし彼はわがままを通し孤立することも自分を失うことと意識するので、やむなく一時自己を滅却し、集団に所属するという葛藤を抱える。これは義理人情と通じるところがある。

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