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2010年1月27日水曜日

「あの経済発展は何だったのか」を1500字で表す

 日本は先進工業国の中で最も遅く経済的発展が始まった。1880年代半ばだといわれている。この頃政治的には大隈重信時代のインフレを収束すべく松方正義が強烈な緊縮財政をしいたことでいわゆる「松方デフレ」が起こっていた。またこの頃の日本人の所得水準は、先進国の中で最も低い。それが今は他国と比べても遜色ない水準に達しているのだから、異常なキャッチアップがあったと想像できる。その原因はなんだろうか。
 まず、江戸時代にインフラが整備されていたことが挙げられるだろう。
 江戸時代の識字率は、シュリーマンが証言した通り実は高い(一説によると86%)。ドーア、パッシンの教育近代化論にあてはめて考えると、このことが近代化を早めた一大要因であることが考えられる。読み書き能力の普及は、近代日本の出発にあたって、社会的には学習・訓練の習慣とそれによる向上・出世の精神を植え付け競争社会への移行を容易にし、経済的には西欧の新知識、技術の習得を容易にし、政治的には近代教育制度の基礎を提供し、中央集権国家の形成に役立ったとするものである。
 次に、灌漑農業の浸透が挙げられる。
 多くの学者が述べているように、20世紀に存在した農地のほとんどは、江戸時代に由来する灌漑の恩恵を受けていたとされる。近世の灌漑は河川灌漑であり、治水を必要としていた。さらに一定の地域の用水管理のための水利組合といった制度の発展も必要とされ、このようなハードインフラの整備と制度の発展が、近代経済成長に寄与したと考えられる。
 そして、情報伝達の手段としての飛脚の存在も見逃せない。
 彼らは一般的に理解されているような明治期における近代郵便制度の基礎になっただけでなく、絹織物、生糸、ベニバナなど陸上輸送の担い手であったということも忘れてはならない事実である。幕末には書状、金子、荷物、為替、歩行荷物を扱い、金融システムの担い手ともなっていた。江戸時代、江戸は金貨幣本位であり、大坂は銀貨幣本位であったので、領地間の金銀為替取引が盛んに行われた。
 堂島米市場では現代における倉荷証券や船荷証券のように米の現物が証券化され、帳合米市場と呼ばれる先物市場が併設されていた。堂島の意義を強調した山片蟠桃は、現物市場と先物市場を両輪と考えていたようで、「日本のアダム・スミス」と評されることもある。 

 明治に入って工部大学校が設置され、科学技術の進歩が、教育水準の上昇と制度の整備により中身を伴う成長へと誘うことになる。また伊藤博文が日本に招いた技師、ヘンリー・ダイアーによって「エンジニア思想」(エンジニアは社会発展の原動力であり、牧師・医師・法律家といった旧来の専門職と並ぶ専門職であるという考え方)がもたらされる。このことは日本における近代技術発展に大きな意味を持った。
最後の重要な要件は、ガバナンスである。
その大きな要素は、官業払下げと殖産興業政策であろう。官業払下げは、開拓使官有物払下げ事件に代表されるように現在では汚職の要因となったという説もあるが、払下げを受けた岩崎、浅野、古河、三井などが払下げ以前に企業経営能力を身に着けていたことは見逃せず、払い下げられたすべての事業が成功したわけではないことから、かつての説は一面的であるといわざるを得ない。殖産興業政策においては、鉱山を幕営工場から引き継ぐことから始まり、内務省と工部省がそれを担った。この政策の導入には、岩倉使節団の働きが非常に大きかった。官業払下げは、①国家統治に必要な軍工廠、造幣局 ②多くの資本と高い技術を要する金銀銅鉄の鋳練溶解所、印刷局、郵便電信 ③工業勧誘のためその模範を示すにとどまるものに限り、傾斜的な投資をした。この判断が結果成長のためのインフラが整備されることにつながり、飛躍的な成長を遂げたと考えられる。

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