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トータルライフコンサルタント 相続診断士

2010年9月3日金曜日

享受の意味

働かなくなったり、学ばなくなったりする若者が増えていることについての理由を探る研究の中で、興味深いものがあった。それは現代の若者が何かにつけて「等価交換」を求めている、というものである。

つまり自分たちはこれこれこんな労力や時間(「不快という貨幣」:内田樹氏)を差し出すから、お前たちは何をくれるんだという一見合理的な論法である。学校での勉強や大学進学、会社勤めなど価値の見えにくいものに対して、彼らが貨幣を差し出さなくなった、というものだ。


この問題についての一番の懸念事項は、以上のような発言をする若者に対して大人が「いい大学に行っていい就職をすればいい暮らしができて云々」という類の下手な説明しかしないことで、この説明が自分たち若者のお勉強や勤労からへの逃げ道を直接的に塞ぐものでないことを彼らは気付いているのだ。

日本国憲法で決められている通り、教育は権利である。「なぜそんな権利享受しなければならないんだ」というような問いは、少なくとも一昔前にはなかったものであり、「新しい日本人」が生まれてきたようだ。下手な言い訳をせずに「そんな質問をされると思わなかった」と返せばいいし、「どうして健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を享受しなければならないか」という質問に対しては首を締めあげてやれば気付くだろう、と内田氏は説く。うん、なるほど。


権利といえば、また聞きなれない権利が認められようとしているらしい。
その名も「移動権」(http://jafmate.jp/safe/20100622_1303.php:ej Magazine参照)。
よくわかりにくいですが、要は「人からコンクリートへ政策」の合法的な逆走ですかね?穴埋めと言いますか。「人のためのコンクリート」か。

ものは言いようやなあ。

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