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2011年2月2日水曜日

説明責任とはなんぞや

人類学者エドワード・ホールによれば、日本の文化というのはハイ・コンテキスト・カルチャーというのだそうだ。
その文化においては多くの文化的コードが暗黙裡に共有されており、まあ簡単に言えばあんまり物言わなくても伝わっちゃうことが多く、そこにはある種の趣きなんてのも加わる。

「和を重んじる日本文化は、個人の能力を競いながら目的を遂行することとは反対で、集団で強調して目的を遂行する。
又、武士道精神や儒教思想に基づきあれこれ言い訳しないことに慣れ、アカウンタビリティ(説明責任)の意識は薄れている」のだそうで、さらに第二次世界大戦のときのややこしい話が加わる。


結果的に真珠湾攻撃が『奇襲』になったのは、当時の在米日本大使館の情報認識の甘さと職務怠慢だったことを戦後すぐの1946年に外務省がまとめていたことが、1994年に発覚しちゃった。
情報認識の甘かった関係者各位は処分されず、アメリカには「sneaky jap」(薄汚いジャップ)と認知され、果ては原爆投下される。
ここでも政府は、説明に必要な三原則、『オープン、フェア、スピーディ』を欠いていたことになる。


要約すれば、武士道精神のハイコンテキストカルチャーが敗戦によって世界基準の説明責任を求められたときに、口下手な外務省によって話がややこしくなった。
現在日本が抱えている問題を政府任せにしていることに国民が危機意識を持ち始め、己の抱えている情報をオープンにしなさいと国民がうるさく言っているような気がするのだ。




ちょっと前から主流の情報開示っていうのと、説明責任は、やっぱり切っても切れないと思うし、最近街の人にインタビューするとみんな口合わせたみたいに『説明責任!!』って言うじゃないですか。すごい違和感感じる。説明責任って何のことで、なんで必要なのか。


武士道時代は許されなかった失敗(当時は切腹)が説明責任を果たすことで許されて、逃げ道として使われてることもある。それにも反対してるでしょ。じゃあいったいなんなんやろう。




情報開示社会では、昔はお上の専売特許やった情報掌握がもちろんないから、『みんなで協力して世の中のこと考えてみようゼ』的な発想になって、その代表にはその方針について当然説明を求める。悪いことしたらもちろん説明求める。それって今まで情報的弱者であった一般国民が、(なぜか)いつの間にか勝ち取っていた権利を維持して行使しうる手段になったんじゃねえかなあと思います。

一緒に生きるんやから、説明する。
なぜか子供のとき、母親に帰宅時間を約束させられたように。
それができなければ、コミュニティを追放する。

『説明責任』は、コミュニティとして生きていく日本人が行っている、信頼関係構築の作業なんでしょうね。
それができない政治家は、鳩山さんとか小沢さんのように、追放されていくわけです。
検察審査会は、おばあちゃんみたいなもんやな。

違うか。

(参考文献:『説明責任とは何か』井之上 喬)
アカウンタビリティ(説明責任)by Wikipedia

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