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トータルライフコンサルタント 相続診断士

2008年12月18日木曜日

「泣ける話」も、その成功のために失敗する

よく掲示板なんかで「泣ける話」として取り上げられている話がありますよね。

たとえばこんなやつです。



親父の記憶は全く無いし、顔も名前すら知らない。母子家庭なのだが、母も仕事で忙しく俺は小さい頃から祖母に育ててもらった。いつもばあちゃんは、「ひもじいか?」と言い、卵と醤油だけの炒飯を作ってくれた。それが絶妙な味で、俺も一端の料理人なのだが、何度挑戦してもあの味は出せないでいる。毎日一緒にいたばあちゃんも、小4の頃に糖尿病で他界した。人前で泣くのがかなり恥ずかしい年頃なのに、葬儀中に大声で泣いた。高校の時に、母とばあちゃんの思い出話になった。「ばあちゃんね、料理なんか全然しなかったんだよ」「でもね、お前にご飯食べさせる為に」「不器用だからたったひとつしかレパートリーなかったけど、ご飯作ってくれたんだよ」たしかに今思えば、ばあちゃんの作る炒飯は美味いとは言い切れない。だが俺の思い出の中では、未だに追いつけない味なんだよな。まさに、料理は愛情ってヤツだ。ばあちゃんに、俺の炒飯食べさせてやりたかった。
http://www.melma.com/backnumber_167436_4281670/より転載)




「泣けるか?泣けないか?」って話になり、「泣けるけどすぐ忘れる」という意見と、「泣けない」という意見に分かれました。

僕は泣けません…


自分の肉親に同じことが起きれば、泣けると思います。
そして、この話の当事者は、この話が真実であれば泣けるんだということも容易に想像できます。


では、なぜ泣けないのか?


想像力が足らん!!  という意見は、却下しました。上記の通り、想像はできます。

人間味がないのか?  それも上記の通りNOです。




いろいろ考えた結果、以下の仮説を導きました。

20と何年も生きてると、もちろん身近な人の不幸や、身近な人の身近な人の不幸に出会うこともあります。僕も例に漏れません。

「誰かの死」は、かなりの確率で誰かが泣く話になり、逆に泣ける話というのはそのほとんどが誰かの死の上に成り立っています。(サイト参照)


しかし僕は自分の身近な人の死について、「誰かに話したい」という願望がほとんどありません。それは結構賛同していただけるんじゃないかと思いますが、むしろ上のように公にすることについて、かなり違和感があります。



自分がなぜ公にしたがらないか?

理由は思いつく限り、以下のようなことです。


  1. そもそも自分の負っている悲しみを、人が自分が負っている以上の悲しみとして理解するわけがない。つまり、人に話すと自分の大事な人の死が、自分が思っているほど崇高なものではなくなる恐れがある。本当に悲しいなら、自分の内に秘めて消化するほうが危なげない。
  2. 人にこの手の話を聞いたとき、普通はちょっと困る。その理由として、何を求めているかが明確でないのと、「死者」という人種の圧倒的な存在感がある。自分が逆に話す立場になったとき、同じ心境に陥らせるのではないか?という恐れがある。また、1の理由によりあまり安っぽい意見も聞きたくはない。

このようなことを理由として考えたとき、逆に公にしようという立場の人の心境を想像するに、次のようなことが考えられる。

  1. 正直悲しみはそこまでのものではない。
  2. 広く人に聞いてもらうことによって、少しでも自分と同じ心境に達してもらい、それを実感することで自分の悲しみを和らげようという意図がある。(気分転換を含む)

しかしこういってしまうと、ものすごい悪意があるように聞こえてしまうので、自分のことを考えたとき、もうひとつの疑問に出会いました。

「もうそろそろ話してもいいかな」と思うのはいつか?

自分の場合、悲しみが薄れたときです。

話したとしても、もう悲しまない。そしてその姿を見て、聞いてくれた人も悲しまない。そう判断していいタイミングだと思います。

おそらく「悲しい話」はこれにあたると思います。

つまり、「聞いても誰も悲しまないタイミング」で話している。悲しまないというと語弊があるかもしれませんが、「悲しむことを楽しめる程度」ということでしょうか、一種の「エンターテイメント」です。

ここにものすごい違和感を感じるんです。「泣かせよう、おそらく泣くだろう」と思って書いている本人は悲しみの時期をとうに越えて、エンターテイメントとして話を提供する。そしてその提供された話は、ほとんどの場合が自分の身近な人の死を題材にしている。その温度差に妙に冷めてしまって泣けない。

これやったんですね…

「泣く」という行為には、感情移入が必要です。

相手に同情するとか、自分に置き換えてみるとか、何かしらやってると思います。だからこそ、泣ける話であればあるほど、話してはいけない。人を(エンターテイメントとして)泣かせようと思うなら、公にすべきでない。ということになるのかもしれません。

まあ、僕のような人間を泣かせようと思えば、ということですが…

結構こういうのが弱い人も、たくさんいるみたいですね。



2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

>「もうそろそろ話してもいいかな」と思うのはいつか?

自分の場合、悲しみが薄れたとき

これは間違いないです。
本当に悲しい場合冷静に話せませんしそもそも話しません。本文にも書かれていましたが、話したところで、相手が困るのが目に見えているからです。

自分自身の実体験ですが、肉親の死について話せるのは、その出来事をある程度客観視できるようになってからです。言い換えると、そのことについて同情も慰めも必要でなくなったら、といえるかもしれません。

匿名 さんのコメント...

プラス、なんか強くありたい自分がいませんか?とりあえず最初は、悲しみを自分の中で消化して、それが薄れると今度は外に小出しにしながらぶり返す悲しみに耐えうる精神力を作る。このときに相手に何かを言われると、その繊細な計算が狂う可能性がある…


そう考えると、「ご愁傷様です」っていう言葉はとても便利ですね。
その話題に深く入るでもなく、関心を示さないでもなく、とにかくその話を聞いたときのなんとなく嫌なもやもやした気持ちを、一気に払拭できる。

大人の言葉ですよね。