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2009年2月6日金曜日

「甘えの構造」 3章 前半

言語は文化、環境、国民性などに影響を与えると思う。哲学者エルンスト・カッシーラや言語学者ベンジャミン・リー・ウォーフなどが賛同している。日本語の中にあって欧米にない言葉は明らかに「甘える」という語であって、これはひとつの大きな言語体系を構築している。

なぜ日本語にのみ「甘える」という概念が存在するのか、心理学的に分析してみる。無意識の状態から心理的発達を行う際、言語によって取り上げられる事柄と、取り上げられない事柄がある。精神学者ローレンス・キュービーによればこの選択は、人間のあらゆる知覚表象は自己の極と非自己の極(外界)の極をもっていて、表象が言語化される際、通常は非自己に重点が置かれ、自己のほうは無視される。これは個体の生存において外界が重要であるからである。以上のことは、言語の多様性をも説明している。

甘えるという語が指す内容について、時代を追ってみると、過去に「幼児が母親に抱く感情」として捉えられていない。「甘え」の語幹「アマ」は「天」、つまり我々に恵みを与える存在という認識において通じるところがある。

発達的に見れば、甘えの心理的原型は母子関係における乳児の心理に存することは明らかである。しかし生まれたての乳児については「甘えている」とは言わないように、母子が分化してから「甘えている」と言われる。「甘えている」と言う概念ができたおかげで、母親は乳児の心理を理解できるようになった。このことが他の言語圏の国に比べて強く自覚される日本人の精神には、この概念が強く影響し、より多くのバリエーションを示す語句が派生したと考えられる

日本人を西洋と比較して非理論的であるとか直感的であるとか閉鎖的な人倫的組織を重視すると言われるのは、甘えの感情を外から眺めたものである。甘えの持つ他人をとろかして他者性を消失させるという性質は、否定的に見れば閉鎖的で自己中心的に映るが、肯定的に評価すれば無差別平等を尊び寛容的な社会を作りうる。

この無差別平等の精神は、神道でも唱えられている。本居宣長などはその代表的な支持者である。

甘えの精神は、日本人の審美感にも影響している。美が個人にもたらす快い感覚は、個人とその美との間にしばしば一体感を与えるが、美は個人を受け入れるものではないから、個人はフラストレーションを感じてさらに追及するのである。「わび、さび、いき」はその例である。

しかし「いき」を研究した九鬼周造が参考にしたのは江戸時代の文学であることや、夏目漱石が唯一使った「甘え」という語が夫婦間のものであったことなどから、甘えのもつ幼児性についてはごく最近認められるようになってきた考えられる。これは1章で述べたように、敗戦によって従来の道徳観念の権威が失墜し、個人がそれに縛られずある程度自由に生活しだしたとき、自らを実際に動かすのが甘えという欲望と言うことに気づいたからである。我々は今後、主客をはっきりさせ、甘えを超克していかなければならないかもしれない。

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