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トータルライフコンサルタント 相続診断士

2009年2月22日日曜日

「甘えの構造」 3章 後半

自由という言葉の日本語における意味は「甘える自由」であり、西洋における「人間の尊厳」という見解と対比してマイナスの意味合いが強い。今日の日本語における自由は、これらのプラスとマイナスの両方の意味を持ち、極めてあいまいである。西洋においては1640年にOutlandich Proverbsの中に初めて「神は自らを助くる者を助く」という言葉が登場し、神頼み、人頼みを諌めている。これは個人の自由が強く意識されるようになったのと同時期のことである。

日本人が初めて西洋の自由に触れたとき、個人の自由を体得できたなら義理人情の葛藤を超越出来たろうが、多くは望ましい自由を得られない新たな葛藤に悩まされることになった。このことは、近代日本文学の描写の中に表れている。

日本人は人から好意を受けると、恐縮する。相手との関係がよい場合なら問題ないが、いったん関係にひびが入ると、これが堪えられない負担に変わる。個人の自由の意識に目覚めた人間ほど、このことに過敏になる。

西洋人が相手の好意と個人の自由との間で葛藤せずにすむのは、自由が神から与えられた不可侵のものであるからである。ルターはこれを強調するうちに政治的圧制に対する個人の自由という意味が強くなってきたようであるが、彼自身神の正義のゆえにローマ教会に反抗しながら、農民が彼に反抗すると暴力的に弾圧を加えるという矛盾を犯している。この矛盾が受け継がれてきた西洋では、自由が空虚なスローガンであったという反省がなされてきている。資本主義社会が人間を疎外すると述べてきたマルクス、キリスト教が奴隷道徳であると述べたニーチェ、無意識による精神生活の支配を訴えたフロイドはその例である。しかし西洋人はその結果新しい自由を見出すということをせず、絶望と虚無の境に低迷している。これは彼らが隠れた甘えに支配されているという証拠である。

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