和歌山毒物カレー事件の第3審が行われ、被告の死刑が確定する公算になりました。
あと1ヶ月後に迫った裁判員制度にとって、大きな課題ともいわれる結果になっていますが、その理由は動機がはっきりしていないことと、状況証拠が推測と少数の目撃証言に基づくものであって、死刑を断定するには少し無理があるのではないか、それを一般市民に決定させるのは、なお無理があるのではないのか、ということです。
人の死をいざ決定する場面に直面したとき、人情として被告のいいところを探してしまいがちだと思います。おそらく僕が裁判員として量刑を決定する立場なら、そうなるでしょう。「どんな人にも死んでいい理由はない」という境地には、冗談ならともかく至りにくいものです。以前「裁判員制度の導入によって、死刑は激減する」という趣旨の発言をしたのはそのためです。
それとは別に、興味深いデータがあります。
アメリカでのデータしかないのですが、「量刑が見た目によって多少左右する」という結果が出ています。アメリカの裁判で、被告(女性)を「見た目のいいグループ」と、「(相対的に)そうでないグループ」に分け、同じような案件で量刑を比べたものなのですが、容易に想像しうる通り「そうでないグループ」の量刑は重くなったわけです。
「人は見た目が9割」ではないですが、一般人が陪審に参加すると、こういう結果になるのかもしれませんし、ひょっとして法律のプロですらこういった判断を下しかねないのかもしれません。状況証拠をおおよその推測に頼らざるを得なかった今回の場合、そのような境地に果たして至りはしなかったでしょうか。
以上のことが裁判における手間や精神的ストレスに誘発されるものであったとすると、やはりプロでない限り「裁きに参加」というのは難しいのではないか、と思ってしまうのです。ほとんど国民の理解が得られないまま見切り発車感の強い今回の制度ですが、動機不在のまま出た今回の判決と、どこか被りはしないでしょうか。
子供は「悪いことをしないように」と教えられます。同時に悪いことをすると、どんな仕打ちに合うか、どんなめんどくさいことになってどれだけ人様に迷惑をかけることになるか、教えられます。そしてほとんどの人間は、そうならないように育ちます。人様に迷惑をかけてめんどくさいことになってる自分の人生(もしくはそんな世界)を見たくないと思っています。それが裁判員制度によって、否応なしにそんな世界に引きずり込まれます。「事なかれ主義の日和見主義」と言われても、安穏無事に過ごすことがある意味で人々の美徳になりうるこの社会で、他人事とはいえそんな世界を覗いてしまうのはストレスになりえます。
「あんな人にはなっちゃダメよ」とは教えられても、悪人を正機させる術は身につけておりません。他人は他人、自分は自分。変な個人主義が根付いた日本で、果して裁判員制度が正常に機能し得るのか、やるからには応援しますが、機能するまでは戦々恐々としながら紙がこないことを祈ることになるでしょう。
2 件のコメント:
今まで、弁護士とか裁判官とかがたくさん金もらってやってたことをなんで俺ら一般市民がやらなあかんねん、とよく思います。
見た目もそうですが、裁判員に選ばれた人間がミルトンエリクソンなどの誘導に習熟していたら、判決なんてかんたんに恣意的に決めることが可能な気がしていて、そういう点からも危うい制度だと思っています。
ちなみに僕は「目には目を、歯には歯を」理論者です。たぶん面接で落とされると思いますが。
あ、なるほど面接で落とされるほうにもっていくっていう手がありましたね。
でも結局裁判員が判決出したって突飛過ぎたら裁判官なり弁護士が修正するんやろ?民主的な司法をアピールしたいだけじゃないのか、と思うんやけど。
逆に全部の量刑を、全部一般市民が決めるようになったら面白いと思う。中途半端はよくない。
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